2016-02-25

何をそう「呼ぶか」という定義は難しい

初詣起源についての一考察(http://anond.hatelabo.jp/20160225024404)はなかなか面白かったです。

興味をもって、思い立ち調べたのですが、「賽銭」についてのWikiディア記事がなかなか参考になるっぽいです。

そもそも、神仏に供える銭を「投げる」という行為に大変違和感があったのですが、発端が「散米」といって神に供えるのに米を投げるという行為が源流であったかもという説はなかなか興味深く、なんとなくこれが賽銭を投げ入れるという行為につながっているという説には説得力がありました。アジア各地で神社仏閣等にお金を供える箱はあっても、「上から放り込む」式の箱はないのだとか。一般人賽銭をまつる風習室町にさかのぼり、記録上最初賽銭箱は1540年鶴岡八幡宮におかれたとか、そういった記述を見ると、なるほど増田さんのおっしゃるように、戦国期には、今日の我々の行動につながる神社参詣のひとつの形が生まれているのかもしれません。

ただ、そういった神への感謝の独特な表し方の一端が初詣につながっているとしても、「お正月に着飾って物詣にまいりましょう。これが日本のよき風俗です」とやらかしてうまうまと伝統の衣をかぶせやがったのが明治末期の鉄道屋連中であることはハッキリしておるわけで、嘘を吐くときに何かもっともらしい由縁を持ち出してくるのは、その手の広告屋のやり口ですから、上記のようなことがあるとしても、それでそのまま「初詣日本の伝統」とはならないわけです。婚約指輪とか、あるいは近い例では恵方巻とか。いくら由緒があろうが、それらが商業的な都合によるキャンペーンなどで「作られた伝統であることはゆるぎないわけですね。たとえば、新興宗教既存神様を祀ったところで、その宗教伝統ある宗教ということにはならない。それと同じです。

ただ、もちろん「作られた伝統」の中にも、定着するもの/しないものが歴然とあるのは事実です。それらは、単に「よい風習だと感じられたから残った」ものもあれば、どこかで伝統リンクする部分があって定着するための下地があった場合もあると思います。上のたとえを使うなら、ある新興宗教成功したとしたら、それが「新興宗教であることはゆるぎないとしても、どこかで合理性、あるいは伝統との関連性を持ち得ているという可能性はある。

ですから、「下地があった」ことからすぐに「作られた伝統ではない!」という発想に飛びつくのではなく、「定着した」という事実があったとき、それをもとに理由を調べてみるという態度が大切です。文化というのがどのような関連をもちうるものか、それ自体が定かではないわけですから、由来や起源を事細かに言い立てて変に権威化を図るより、素直に目の前のことを分析することの方に理があると思います

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