去年の夏、ヒキガエルのげっぷの様子をYouTubeにアップした。一年半付き合った彼女と別れた矢先のことだった。
あれから一年ちょっと経つ。再生数は49。その内、自分で再生したのがおそらく10回くらい。単純計算すれば39回は、俺以外の誰かが見ているということになる。
だからと言って39人の人間が、各々べつべつのタイミングで再生したとも限らない。リピーターだっているはずだ。一人で5回見た、なんて物好きもいるかもしれない。
純粋に、カエルのげっぷなぞに興味を持つ人間がいるとは思えないし、いたとしたらそいつはきっと生物学者かなんかだろう。いや、今更カエルのげっぷなんかを研究する学者がどこにいる。それはきっと、世界にとっては分かりきったことだし、それでもなお、カエルのげっぷについて研究したいという生物学者がいるとしたら、手近なYouTubeなんかで済ませようとせずに、自分の足で、野に分け入ってカエルを捕まえるべきだ。お前は研究をナメている。向いてない。
「この宇宙はカエルのげっぷによってあらかじめ記述された世界なのです!! 私たちはカエルのげっぷによって生み出されたオタマジャクシ。ほら私たち生物には、染色体の配列によって性を二分する基準がありますでしょう。XY、いわゆるオスと呼ばれる生き物たちは皆、ザーメンというものを持っています、ね、アレ、オタマジャクシに似てるでしょ、ほら、ちょろちょろ、ちょろちょろって」
さあさあ、手と手をとり合って、これより宇宙開闢のときへと立ち返るのです――君、YouTubeを開いてくれないか、そうあの動画だ――さあ、耳を澄ませて、オオガエル様のげっぷが私たちを因果の輪から解脱させるのです……、なんてこともあり得るかもしれない。でも、そうだとしたらそもそも49回しか再生されていないのはかなり深刻な問題だろう。信者何人いる。運営方針を見直せ。
もちろん、カエルに対して異常な愛情を示す博士も、目の付け所がいささかシャープなカルト宗教の教祖も、ぜんぶ俺の妄想だ。基本的に、こういうくだらない妄想だけをしてきた。そして気がついたら一年とちょっとの月日が経っていた。新しい恋人はいない。俺の彼女いない歴は、ヒキガエルのげっぷをYouTubeに載せた彼の日から、延々と引き伸ばされつづけている。付き合っている当時は、彼女との日々が優先順位のてっぺんに位置していたため、自ずと友達も減っていった。毎日がヒマだ。そして今、俺は、ちょうど50回目の再生をしようとしている。記念すべき今日、この瞬間だ。
ときおり俺は、妙な想念にかられる。俺以外の誰かによる39回の再生が、全てひとりの人間によって行われたことなのではないか、と。
「ヒキガエル げっぷ」などと律儀に検索をかける人間は、俺の妄想の外側、つまりはこの現実には存在しない。だとしたら、あの動画を投稿したのがこの俺であると知っている人間、が見ていると考えたほうが理にかなわないだろうか。そして、そのことを知っている人間は、おそらくこの世界にひとりしかない。昔の動画は全て消した。今や俺のチャンネルに登録された動画はヒキガエルのげっぷのみだ。楽しかった日々の思い出は、今や虚ろな宝石、石ころ、石ころ、石ころだ。でも、もし。もしも、彼女が、今も何処かでスクリーンに映るカエルのげっぷを見ているのだとしたら、それはきっと、終わりきったふたりに許された小さな逢瀬だ。