結婚という制度がある。一人の異性を人生の伴侶とし長い年月を共に過ごさねばならないらしい。当然、その伴侶選びは人生の良し悪しに大きく影響する一大事だ。実際、インターネットに転がる夫婦の不和に関する話を読むにつけ、その相手選びがいかに重要であるか思い知らされる。では、適切な伴侶を見つけ出し、結婚するには何が必要か。簡単に言うと二つだ。
身なりを整える、誠実な態度を取る、相手を愛する、当然だ。
それに加え、楽しませる能力が必要になる。つまり、楽しいデートを提供し、楽しく会話をし、セックスを一緒に楽しむスキルを言う。
相手を楽しませることができなければ、付き合うこともままならないし、たとえ結婚できたとしてもお互いに不満が募るばかりだ。
口先で「好きだ」「愛してる」なんて言うのは簡単だ。果たしてそこに自身への好意、尊敬、信頼はあるか。見極めなければならない。
いわゆる選球眼だ。口先だけで中身の伴わない相手と結婚しても、不幸は目に見えている。
こういった能力を獲得するにはどうしたらよいか。
いきなりシチューを作れと言われて最高のシチューを提供できる人はそうそういない。野菜の切り方、煮る時間、試行錯誤を繰り返さなければならない。何事も練習だ。
相手を楽しませ、理解するには、複数人の異性と付き合い、試行錯誤する必要がある。
さて、ここで一つ不都合が生じた。
誠実な人間を仮定しよう。誠実であることは社会的要請である。結婚相手に誠実さを要求する人は多い。
彼/彼女は体目的や、年収目的で近づいてくる異性を相手にしない。愛するに足る、結婚を前提として付き合えるような人間とでないと付き合わない。当然、そんな相手はそうそう現れるものではないから、付き合う人数は自然と少なくなる。初めての交際相手と結婚ということも十分起こりうる。
しかし、人生の伴侶探しという観点からは先程述べた通り、交際の経験を積めば積むほど有利だ。交際経験に乏しく、相手を楽しませるスキルがないばかりに浮気されてしまうかもしれない。彼/彼女を愛しているというけれど、実は口先だけで、ステータスが欲しいだけかもしれない。比較対象が少ないから、酷いことをされても、それが普通だと勘違いするかもしれない。
彼/彼女はどうするべきだろうか。
自身の誠実さに従い、自身のシチュー作りの才能を信じ、いつ現れるとも分からない結婚相手を求めてその日を待つべきか。
それとも、自身の誠実さをかなぐり捨て、経験と割りきって大して好きでもない異性と付き合い、シチュー作りの腕を磨くべきなのだろうか。
大して好きでもない相手に大好きだよって言うことか。
別れた一ヶ月後には別の相手と付き合い始めることか。
同時に複数の異性を掛け持ちして付き合うことか。