はてなキーワード: 逸話とは
昔の化学者のエピソードを見ると「合成した物質を舐めた」みたいな話がたまに出てくる
1965年、アメリカの製薬会社G.D.サール社の化学者ジェームズ・M・シュラッターが、ガストリンの合成に取り組んでいたときに偶然発見した[113]。シュラッターは、抗潰瘍薬の研究をして、ホルモンであるガストリンのテトラペプチドを生成する中間段階としてアスパルテームを合成した[113]。シュラッターは、薬包紙を持ち上げようとして、アスパルテームがついた指をなめて、その甘味を発見した[8][114][115]。トルン・アテラス・ガリンは、アスパルテームの開発を監督した[116]。
うん年前は私も大学で学生実験をやっていたわけだが、生成物を舐めるなんて発想はとてもじゃないが出てこなかった
まあ、私の場合は重金属を扱ってたので舐めたらヤバいと知っていたわけだが
アスパルテームの場合は製薬会社内の出来事、つまり薬学系なのでそこらへんの肌感覚が異なるのだろうか?そんなことないと思うがな……
Sucralose was discovered in 1976 by scientists from Tate & Lyle, working with researchers Leslie Hough and Shashikant Phadnis at Queen Elizabeth College (now part of King's College London).[21] While researching novel uses of sucrose and its synthetic derivatives, Phadnis was told to "test" a chlorinated sugar compound. According to an anecdotal account, Phadnis thought Hough asked him to "taste" it, so he did and found the compound to be exceptionally sweet.[22]
スクラロースは1976年、テート&ライルの科学者が、クィーン・エリザベス・カレッジ(現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部)の研究者レスリー・ハフ(Leslie Hough)とシャシカント・ファドニス(Shashikant Phadnis)と共同で発見した[21]。スクロースとその合成誘導体の新規用途を研究していたとき、ファドニスは塩素化された糖化合物を「テスト」するように言われた。逸話によると、ファドニスはハフから「味見」するように言われたと思い、実際に味見をしてみたところ、その化合物は非常に甘かったという[22]。
testをtasteと聞き間違えたからといって舐めるか?そうか、舐めたのか……
スクロースのヒドロキシ基を塩素で置換したものなので、まあ舐めても危険ではないくらいの認識はあったってことなんだろうか
Tate and Lyleは食品系の会社でそこの研究室での出来事なのか、なら味を確かめろって言われたら舐めるか……
科学者の倫理感の移り変わりが気になるので『世にも奇妙な人体実験の歴史』という本を買って読んでいる
少なくとも20世紀初頭くらい最近になっても現代基準で見ると危険な実験やりまくっていたようだ
自己実験とは違う話になるがデーモンコアの実験も1945年くらいか
前述の本を読んでいると「申請すると許可が下りるわけないので自分の体で実験して事後報告した」みたいなエピソードが出てきて笑う(笑えない)
シェーレが若死にしたのは同時代の化学者の例に漏れず、危険な実験条件のもとで研究を進めたためだと考えられている。また彼には物質を舐める癖があったため、毒性のある物質の毒にあたったのではともされる。
18世紀とかだと「まあ舐めて確認する人がいても不思議じゃないわな」と思うのだが
イギリスのとある医師がニトログリセリン舐めて心臓止まりそうになって死にかけたのが19世紀の出来事
舐めて死んだとか、舐めて大発見に気付いたみたいになっていないから記録に残らないだけで
有機系をやってた大学の頃の同期に「実験生成物を舐めるって発想あった?」と聞いてみたが「ありえん」の一言が返ってきた
現代日本の大学の研究室で、教授が学生に向けて「生成物を舐めて確認してみよう」なんて指導するところなんてありえるのだろうか?
流石にないだろう……あるのか?生成物がアミノ酸とかならありえるのか?有毒なものだってもちろんあるが生成物はだいたいこんな感じの物質って元素の内訳も構造もある程度予想ついてるなら舐めても多分大丈夫みたいな肌感覚が育つのだろうか?わからん世界だ
でも薬学系とか食品会社の研究所でも一度動物に摂取させるとかやると思ってたんだがな、きっと普通はやるのかもしれないが一部の人がいきなり舐めたのかもな……
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医学者による自己犠牲的とも勇敢ともいえる自分の体を使った研究ではなく
ある種の迂闊さでペロッと舐める科学者が今でも一定の割合でいるんじゃないか?という疑問を書いた日記
ペトリ皿に鼻水垂らしたのがきっかけでペニシリンを発見したという出来事は幸運な結果に終わった迂闊な出来事だったわけで
そういった種類のおおらかさは現代だとあまり許されないはずなんだよな~
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耳寄りな心臓の話(第2話)『爆薬が心臓病を癒す』 |はあと文庫|心日本心臓財団刊行物|公益財団法人 日本心臓財団
なぜニトログリセリンを舐めようという発想が出てきたのか?を伺い知ることが出来そうなエピソードもぐぐったらでてきた
20世紀初頭にイギリスの火薬工場で、週日の作業中は何も起こらないのに休みが終わって月曜日の仕事が始まると決まって胸痛を訴える工員が何人もいることが話題になりました。最初は工場で扱っている爆薬が原因で起こる病気を疑ったのですが、もともと持病に狭心症のあることがわかりました。
それというのも、原料であるニトログリセリンの粉塵が工場内に舞い、露出した皮膚や粘膜からある成分が吸収されて狭心症が抑えられていたものが、週末に休みをとることで粉塵にふれることもなく薬がきれて、月曜日に力仕事を始めることで狭心痛が起こったと推理されたのです。
痛む胸を押さえて、それこそ青息吐息の月曜日になったことから、「ブルーマンディ」という言葉が生まれたようです。今日では休日明けで、仕事や学校に行くのが億劫になる月曜日の憂鬱、月曜病の走りとなりました。
blue Mondayの語源がニトログリセリン説はかなーり怪しい気がする、勘だけど
これを調べるのも面白そうだ
『世にも奇妙な人体実験の歴史』によると1858年にフィールドという名のイギリスの医師がニトロを舐めたとある
その後1878年にウィリアム・マレルという医師が再度ニトロを舐めて効果を確認し、狭心症の治療薬として自分の患者に試した
火薬工場のエピソードは20世紀初頭……1901年頃ということになる
湾岸ミッドナイトから人生を学べない悲惨な者たちを啓蒙してやる必要がある。
どうせ彼らも一度は湾岸ミッドナイトを読んでいるだろうけど、そこから人生について学べなかったのだろう。
そんな彼らにもう一度読めと言っても無駄だろう。
昔もそうだ。
だがここで私が昔通い詰めていた日記サイトの名前を10個上げても、そのどれもが分からないという人が大勢いるだろう。
何も変わってない。
それは裏に会社がいるとかなんかじゃない。
今だって「ずんだもんの動画」と言って頭に浮かべた動画の統計をとれば10人程度の投稿者の動画が全体の8割を占めるだろう。
だがずんだもんを使っている投稿者はその100倍も200倍もいて、その多くが誰からも「ずんだもんの動画」という言葉で真っ先に浮かばれることがないのだ。
これだって今でも変わらない。
ちゃんと新しいことをやれば注目される。
昔のネットではHPやブログを始めるだけで新しかったというだけだ。
HPを作るのにかかる労力が軽くなるに連れて、HPを作るだけじゃ注目されなくなった。
SNSを始めるのに勇気がいるうちは始めただけで注目されやすかったし、生成AIに早くに飛びついて続けている人は下手の横好きでも第一人者群に潜り込めてたりする。
レッドオーシャンになっていない領域に飛び込む勇気があれば、それだけで今だって注目される。
真っ赤になった海の上で昔と同じことを繰り返して注目されなくなったとボヤくのは、単に自分の分析力の不足に過ぎない。
warez全盛期だった頃と比べればずっとマシになっているとさえ思う。
本名で投稿してる癖に問題発言をしてリアルまで巻き込んで丸焦げになった人間。
匿名での悪ふざけから人生を壊してしまった人だって何人も居た。
老人会的には「小学校で小女子(こおなご)を焼きます」と2chに書き込んで警察を呼ばれたとい逸話なんか懐かしいのでは?
昔も今も、想像力が足りない人、リスクよりも目先の承認欲求を優先する人は炎上しているし、その過程で人を不用意に傷つけている。
リアル知人に言及して「Mさんがこんな馬鹿なことしててドン引きでしてよオホホホ」なんて全世界に知らしめようとする人間の割合に大差なんて無いと思う。
ウィルス入り広告を踏んでもアンチウイルスが反応してくれたり、そもそもポップアップはブロック出来るだけ今の方がマシだ。
悪質なブラクラ、危険なガセ情報、それらが飛び交っていながら自己責任が連呼された時代に比べれば、ネットに強い弁護士を探して訴えればいいという知見が広まった現代の方がまだ大人しいだろう。
エロ系の広告は昔から跋扈していたし、それを踏んで架空請求をされた人が大勢いてニュースで「払わないでください。カモリストに乗ります」と再三警告されていたはずだ。
ユーザーが悪質な広告になれるに連れてそれを掻い潜ろうとする新たな悪質広告は誕生しているが、そこにある民度の低さは今も昔も変わらない。
「そんな広告を平然と掲載するサイトが悪い」と人は言うが、昔のネットで悪質な広告が突然出てきた時、それが果たして全て怪しいサイトだけだったか?
まあそもそも昔のネットは怪しいサイトばかりだったと言えばそうなんだが。
昔のネットだって業者と金目当ての輩が作り出したものだっただろ。
古のインターネットを象徴する中心的スラム街たる2chだってひろゆきによって運営されていたもので、それは慈善事業なんかじゃなかったはずだ。
YahooやGoogleをハックするSEO対策はいつの時代も盛んで、ソースコードに無関係な単語を書き込んでアクセスを踏ませようとするサイトがいくつあったことか。
出版社が副業感覚で運営する情報サイトは無数に存在していたし、個人が大掛かりなサイトを運営するモチベにアフィリエイト収入の影響は決して小さくなかった。
そうじゃない単なる承認欲求や手慰みのために活動をする個人の数は現代にも大勢残っている。
何をどう比べた結果でこんな結論を出しているのか。
俺はこんなくだらん妄想にやり返すためだけにいちいち統計を出す気がないが、お前がそれでも言い返したいなら統計を出してくれと言いたくて堪らん。
インターネットは何も変わってない。
変わらずに楽しい。
変わらずにクソだ。
変わらずに金の話が飛び交っている。
変わらずに承認欲求で回っている。
そして、いつの時代も、オッサンが「最近の◯◯って分からねえんだよな」と言いたがるのも変わってない。
世は全てこともなしってことだな。
はてさて、神はどこにいましか。
いない┐ ┌───わからない
│ _..-ー''''''l'''''― ..、
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│ インターネットで見た ,!
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(´・ω・`) おあとがよろしいようで
cく_>ycく__)
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彡※※※※ミ 旦
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\ ドッ!! / \ ワハハ! /
\ / \ ∞
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オンラインで活動するということは、自分に何が起こっているのか全く理解できていないことを意味する。
なぜこんな検索結果が出るのか?
俺はプラットフォームやウェブサイトによって常に操作されているという感覚があり、時には陰謀論に駆られることもある。連中は俺を購買へとそそのかす。
エンゲージメントのために最適化されたアルゴリズムは、SNSで人が見るものを形作り、強い感情的反応を引き起こすものを見せて、参加を促す。
しかし、そういうことがわかっていても、大手テクノロジー企業が生活にどのような影響を与えているかを具体的に知るのは困難である。
Googleはユーザーの検索クエリを改ざんして、より儲かるキーワードを含めるようにしている。
Googleはユーザーを結果ページの有利なショッピングリンクに誘導するために、バックエンドで「子供服」のクエリを「NIKOLAI ブランドの子供服」に密かに置き換えている。
Google検索チームとGoogle広告チームが協力して商業クエリを密かに増やし、それによってより多くの広告を発生させることで、収益増加したいらしい。
Googleのビジネスに対する広範な懸念、つまり製品の有用性や楽しさを低下させるような収益化の決定をGoogle が行っているということが、同社に対する政府の訴訟の中心となっている。
ビッグテック製品に関する証拠は逸話や曖昧なものになる傾向があり、事実よりも雰囲気に基づいたものになってしまう。
Googleは広告や独自のウィジェットをフィードに挿入しながら、人々が目にするものを常に微調整してランク付けし、それによってエクスペリエンスを変えている。
二巡目のオニオンスープ作りつーか途中でパスタソースになってしまうもの確定のそう言うのをまた作り始めたのよ。
前回は微塵切りしたタマネギ臭が充満しまくりまくりまくりすてぃーで
今回は換気をバッチリにして気を付けたので、
つーか前回のタマネギ臭が完全に消えていないうちに行っちゃうから臭覚として馴染んで鼻が慣れてしまったのか、
判別出来ないのかも知れないわ。
それはもうサトウのごはんの速さをしのぐ空けた瞬間に
外の外気に慣れた鼻で家に戻ってくると若干そのタマネギ臭を覚えるのよね。
試しに事務所の向かいの私が以前所属していた会社の人に出会い頭に
私ってタマネギ臭いかしら?って尋ねたけど案外そうじゃないみたいなので多分大丈夫かも知れないわ。
そんでね、
もちろんこれも私が最近試しに試したい試し切り中のぶんぶんチョッパーで微塵切りにして、
それを新たにメンバーに加えて、
タマネギ、トマトホール、ヒヨコ豆、ニンジン、シメジと新たに味の深みがキノコで強化されるか
チームと上手く馴染むかが美味しくできるコツだと思うのよ。
そう言ったスターティングメンバーで試合を開始したんだけど、
やっぱり一晩ちょっと炒めて煮たぐらいじゃ、
1時間半以上はタマネギが飴色になるまで炒めてペースト状になるまでやったのよ。
あれって色が飴色って言うけれど、
だんだん炒めてきたら、
炒めると言うより練るって感じになって、
そうなるともうちょうど飽きちゃった頃なので
よい具合に飴色炒めタマネギができるのよ。
コトコトと煮るの!
もうクノールのコトコト煮込んだ感じを越える勢いの気持ちでコトコトって感じ。
そんで、
試合開始当初なので色がフレッシュトマトレッドで鮮やかだけどぜんぜん味が馴染んでいない
結構出来立てってすぐには食べられないのよね。
いや食べられるけれどマックスの美味しさの先までまだ到達してないって意味なのよ。
多分良いにおいがしているから味の方向性としては間違っていないと思うので、
もうちょっと煮込んでまとまってきたらその時はクノールのコトコト煮た感じを越えるポイントだと思うので、
そうなったら味見してみるわ。
ブイヨンは3粒ね。
今のところまだ塩コショウは入れてない、
ちょっと一旦味見て加えてみるわ。
前回の失敗というか
結構ブイヨンにも塩配合されているぐらいで歯茎が引き締まるレヴェルとまでは言わないけれど絶対成分表を見ていたら塩が何グラムか入っているのよね。
かけ算するより3回足した方が計算が速いぐらい簡単に私でも求められるぐらいの塩分量なのよね。
煮込んで詰まってきてから塩入れないとあとで大変なことになるわ!
入れるのは簡単だけど塩を出すのはほぼもう無理なのよ。
まともに味がまとまって食べられるようになるのは1週間ぐらい
いや最低でも3日ぐらいは落ち着くまで掛かるので、
タマネギとかトマトの入ったソースの煮込みっぷりの手間は作ってみて初めて気付く
失ってからも初めて気付く感じで
ものすごく手間が掛かるんだなーって思うわ。
そんであんまり美味しいからってついついパスタを茹ですぎて食べ過ぎないようにしなくっちゃね!
心を警戒心で高めるのよ。
うふふ。
それを久しぶりに確かめるために食べるかのようよう。
そうね
いつも変わらない味。
ふるさとに帰ってきた感じがするわ。
ふるさとって言いたいだけよ。
サンドイッチ伯爵の実家のキュウリサンドイッチは実家の味なのかしらね?
伯爵が懐かしく思うのかは別として私はそんなハムタマゴサンドだったわ。
あれもゲームをやっているときに開発されたメニューなんでしょ?
煮込みすぎてキッチンがごった返したまんまだったので、
簡単に湧かしてすぐ飲めるホッツ白湯ストレートウォーラーにしました。
まあ冷やして調子悪くしないようにね!ってところかしら。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
お二方ありがとう。
漱石が「月が~」を言ったって逸話事態に詳しくないからその辺はおいておいて、
i love youが、相手に愛を伝えるための発言だとして、それを「月が~」にするのが、意訳かローラカライズかといえば、
i love youが明治期までの日本文化に馴染まない、夜のシーンならたとえば「月が~」なら発話者の意図に合うのでは、となれば、これは、日本文化をターゲットにしたローラカライズ(現地化)ってことね。
了解。
この場合、文化の隔たりが大きすぎて意訳も直訳も厳しいよなあ。
キリスト教文脈でlove/アガペーを「ご大切」って訳したって話が確かあったように思うけども。
意訳って何かってのが、自分の中で薄ぼんやりとしたままだけども。
【追記】あれ、そもそも、一文に対して<ローラカライズ>って概念適用するのが厳しいのか?上でも一生懸命文脈想定して考えてたけども。
【追記2】1文に対して考えようとすると、直訳でないものは、意訳だろうがローラカライズだろうが、直訳=逐語訳では日本人には伝わらないものになってしまうから、形を変えなきゃいけなくなったという意味で、大差ない/もしくは、意訳という物は存在せず自動的にローラカライズというべきものになる???混乱してきた。寝るか。
欧米はコミュ障も含めたチームでやってるからな 戦略が違うやろ
それこそChatGPTとか作れるくらいの巨大チームができるくらいのコミュ力までつけられれば別にコミュ力偏重でもいいけどな
日本はそもそもチーム組まないじゃん?管理職層の能力のなさが一番ひどいっていうのはよく知られた話だが、交際共同研究も少ないし国内ですらチームを組まず存在感すらないのに、
昔の逸話とか残ってるタイプの独立して異彩をはなってるタイプが駆逐されちゃったから
欧米の劣化版コピーを1年遅れでやって国に報告してはお小遣い数百万もらって喜んでる、一般向け(官僚向け)に見栄えのいい研究者ばっかになってるよ
予算獲得のリストを見てもまぁどっかで見たことある結果もだいたい想像つく話をそつなくやってんなぁって感じだし、国が緩やかに死んでいくってこういうことなんだなっていつも体感してる
ユダヤ人とかユダヤ系団体とか、そんなふうに呼ぶから自分はてっきりそういうなんかの人種的特徴をもつ民族集団があると思ってた
そうじゃなくて、ユダヤ教の信徒をユダヤ人とかユダヤ系とかみたいに呼んでいるのか……
スラブ系とかゲルマン系と並列で並ぶようなものだとてっきり……
ということはモンゴロイドの日本人かつユダヤ系というパターンも当然ありうるわけか
ややこしい、なんでユダヤ教徒と呼ばないのだろう
不思議だなあ
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ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている[10]。
※ハラーハーって何
ハラーハー、ハラハー(halakhah, הֲלָכָה hălākhāh)は、ヘブライ語の概念用語で、ユダヤ法(Jewish law)とも呼ばれる。次の意味で使用される。
3.ラビ文献において、アッガーダー(聖書の注解や格言を通して教訓的なものを引き出したり、聖書に書かれていない物語、様々な逸話などの類)との対象として用いる用語。
言語の面をみても、イディッシュ語の話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、ひとつの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている[12]。
内田樹は、英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語では単に「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」「〜民族」「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいるが、実際にはユダヤ人とほかの民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はないという[17]。
我は嶋左近。先日、石田三成に仕官として招かれたものの、三成のような年下で戦歴のないガキの相手をしてもしょうがないので断った次第である。何故我のような歴戦の勇者が歳の離れた領主に仕官せねばならぬのか。いいかげん諦めぬか三成と思っていたがこの青二才、何度断っても仕官の話を諦めようとしない。こういう時は無理難題を吹っ掛けるのが定石だ。三成よ、そなたの石高の半分、二万石で仕えてやろうではないか。「左近よ、それで良い」三成は即答し左近はその心意気に答え三成に仕えることになった。という逸話(諸説あり)を思い出した。
4色型色覚の人は三色型には見えない色が見えているということについて疑問があります。たとえば黄色い花を見ても、三色型には一面黄色い花びらしか見えないのが、4色型だと花の中央側と外側で色が違って見えるみたいなことが起こるといいます。
また4色型の人は三色型からみればサイケデリックと感じられる色遣いで絵を描くことがあると言います。それは彼らの見えてる世界の反映だと言います。
しかしこれらを総合すると色々引っかかることがあると思いました。
色覚の違いによって花びらがよりカラフルに見えることがあったとしても、おそらく絵の具の色は色覚に左右されず単一の色で構成されているように見えるのではないのでしょうか。
たとえば三色型が黄色い花と黄色い絵の具を見たとき、同じものを4色型に見せれば花の方は確かによりカラフルに映るのでしょうが、絵の具の方は違った色に見えるということはあっても、複数の色がそのペーストのなかに見えるということはないと思います。
それはそもそも4色型色覚というのは紫外線を感じる細胞をも余分に一つ持った状態なのであり、絵の具は花びらと違って紫外線を発さないのだから、三色型と4色型で見え方が違うということはないと思うからです。またわずかに紫外線を反射するのだとしても、絵の具の各部分で紫外線を反射する割合に差はないはずだからです。もしその割合が異なるなら、その他の波長を反射する割合も異なっているべきであり、黄色とか青色とか単一の色を持った絵の具というのがそもそもありえなくなってしまうと思います。
そうすると4色型はサイケデリックな絵を描くというのも矛盾点があり、仮に花びら一枚でも紫外線が見える影響で4色型には2色以上のグラデーションに見えるのだとしても、そのうち三色型とは異なる色に見える部分に対応する絵の具は4色型でも見出せないはずです。なぜなら絵の具は紫外線を反射しないからです。
そうするとサイケデリックな絵を描くのはその人が自身の見え方を同じ色には同じ色の絵の具をという使い分けによって忠実に反映した結果というよりも、ただの趣味、画風という感じがします。
これらのことを総合すると、4色型の人も見える色の種類は3色型と同じで、光として受け取る波長域が広い分、三色型と種類数自体は同じ色の、受け取った波長に対する割り当て方が三色型と異なっているだけなのではないかと思いました。
これはたとえるなら、カメラとモニターをつなげたとき、カメラ自体はrgbで光を受け取っていても、モニター自体が白黒表示しか対応していないならモノクロ映像しか映らないようなものです。
光の受容体(カメラ)が4色型の人も、視覚野(モニター)まで三色型に対して突然変異を起こしているとは考えづらいですから、4色型の人の視界に映りうる色の種類数自体は三色型と同じなのではないかと思うのです。ただ波長に対しての割り当て方が違うだけで。
これはたとえば2色型の人でも夢を見ている時は起きているときには見たことがない色を見ることがあるみたいなことを確認するとかいった方法で裏も取れると思います。つまり人間が潜在的に見ることが可能な色の種類数自体は受容体側ではなく視覚野すなわち情報を処理する側に依存しているのであって、何色型でも同一なのではないかと思いました。どうなのでしょうか?
例えば、架空の物質とか、架空の国家とか、架空の作家だとか、そういうこと。
ChatGPTは素直に、その架空の存在に対して長々と何らかの文章、それも、ちゃんと意味の通る文章を返してくる。
私はそれを読んで「ほほーっ、こんな物質があるんだな。素晴らしい物質だな」といった感じで、心から感心するのだけれど、
そのうちに、「そうだ。こんな物質は存在しないんだった。危ない危ない」と気づく瞬間が、なんか楽しい。
実際には存在しないとわかっているのに納得してしまう、という自分の心の動きが、なんか興味深く思えてしまうのだ。
頭では不存在をわかっているのに、心は納得を感じてしまうのが素朴に面白いのだ。
ちなみに、ChatGPTが「架空の○○」として出力する事項は、○○という事項についての抽象化、
つまり、私たちが「こういうことを書けば、○○ってぽいなぁ」というイメージを書き連ねたものなのだと思う。
だから、その出力自体は全くの架空であったとしても、○○に対する概念自体を身につけるには良い手段ではないかと思ったりはする。
(それは、本やWEB(ウィキペディアなど)で学んでもいいのだろうが、それらの記述は事実によって制約されている。
例えば、本質的でない事実で記述が迂遠になることもあるだろう。だから、架空化することで、逆にその本質が見えやすくなることはあり得ると思う。)
BAN 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。
後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。
出自は不詳である。尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀衆[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫[6]の徒士となったという話[7]もあり、出身地や素性も定まらない。
前歴についても不詳である。猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって加藤嘉明に口添えしたという話[8]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれ さのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。
ウルトラクレピダリアニズムはフランス語の言葉で、元々はラテン語の "ultra crepidam" から派生したものです。"Ultra crepidam" は直訳すると "靴の先まで" や "靴の先よりも" といった意味です。
この言葉は、古代ギリシャの哲学者であるアポロニウスに関する逸話に由来しています。
アポロニウスは、靴職人が自分の専門知識について批評的な意見を述べたことに対し、「靴職人は自分の分野において意見を述べるべきだけで、他のことについては黙っているべきだ」という趣旨の発言をしたと伝えられています。この逸話から、"ultra crepidam" が "足先よりも遠く" という意味で他の分野について批評や意見を述べることに関連付けられ、最終的に "ultracrépidarianisme" という言葉が生まれました。
ウルトラクレピダリアニズム"Ultracrépidarianisme"は、他の分野に詳しくない人が適切な知識や経験なしにその分野について意見を述べることを指す言葉として使われます。
実在する児童が性犯罪にあった→ジャニー (しぐれういに実在児童の被害なし)
児童加害を笑いのネタにした→しぐれうい (ジャニーに児童加害をネタにする要素なし)
全く違うんだよね。
これを同じ枠の話だと思ってる人はヤバいよ。
ジャニーは児童への性加害は表でネタにしてはいけないという常識的価値観は持っていたけど、バレなきゃ犯罪じゃないと思っていたから犯罪を繰り返した。
しぐれういとそのファンは上記の常識は持ってなかったけど、バレなくても実際の犯罪をしたらダメだから犯罪行為には及ばなかった。
「犯罪がバレるのが悪いこと。犯罪をするのはセーフだけど、外で仄めかしたらアウト」っていうのがジャニーの倫理観。
「犯罪をするのが悪いこと。仄めかすのはセーフだけど、実際に行為に及んだらアウト」っていうのがしぐれういの価値観。
一応言っておくけど、俺は「仄めかすこと自体が社会に混乱を招くから良くないと思う」に立つよ。
古い2cの逸話になっちゃうけど、「◯◯小学校で小女子を焼きます」って書き込みをしたら通報されたって話は仕方なかったかなと思う。
なるほど確かに旨い。会食って時空を共にする事に金払ってて、飯は精々、って所が多いけど、佛跳牆は別格に旨かった。
この一杯の為に戦争が起きたっていう逸話もそうなんだろうな、と納得できるほど旨かった。
でも悲しいかな、結局味噌汁のが絶対日本人に合うわ。佛跳牆で白米食う気になれなかった。
同席してた芸能人が「質の良いラーメンスープ」と形容してたけど、まさにそれだった。