はてなキーワード: 法体系とは
法は、検察官の土屋が行っているように、立法技術、解釈技術という用語も出て来るように、ものであるとともに技術であるから、志村警察署の刑事課の佐藤が強弁するように
ものではない。しかし、法体系の中で、どれがもので、どれが技術であるか、判然としない。
技術とは何かが問題である。数学では一般に証明技能であるとされる。しかし、実用数学検定における証明技能といいながらそれに技能が必要なのか
いかんながら全国の日本人に圧倒的に人気があり魅力を持たれているのは、 銀座かどこかに会社のある数学検定の1,2級だけである。 3~10級は、宮崎市在住の会社員の女性
子供、10級にあっては、老人が、ボケ防止に利用しているといった状況である。ウソを言うことは出来ない。
数学検定は実用数学検定だから問題自体の質が悪い。 国際の場合は、偉大な問題が出るが、実用数学検定は、計算問題ではないかと思われる問題が多い。
偉大であると何か偉そうな雰囲気がするが、 数学では、偉大な定理でないと使い物にならない、技術上使い物にならないからである。しかしどの定理が偉大で、どの定理がそうでないかといっても
分からない。
特定の場所で起居した場合、それぞれ道路なら、道路法、河川敷なら、河川法、公園なら、都市公園法に触れます。
かといってじゃあ定住しなければよいのかと延々とふらふらし続けたらそれはそれで軽犯罪法第1条4に違反する。
別に強盗(という生き方)とかなら法的にどう足掻いても違法としても仕方がないし普通だと思いますが、そういうのとは違ってホームレスは真の意味で不可抗力で誰もがなり得るものですよね。失業して住む場所を確保するお金もなくなるというのは悪いことをしていなくても、よほど親が代々政治家とか特権階級的な立場にでもないならだれの身にも起こり得ることでしょう。
ようするに完全に大衆の気持ちや実態が理解できないような人が作ってきた法体系に思えます。そういう法律にしても自分が違法状態になる可能性はないからっていう自己中的な態度で法律を通したのでしょう。
おかしいですよね?なんとかホームレスだけどもそこに居る限りは違法とされないような特別な場所を設けるとかしなければ、法治国家のくせに人権は踏みにじってるという片手落ちになっていて筋が通らないと思うのですが。
なんでこうまでして徹底的にホームレスに対してどこで暮らすことすらも許さない(=存在すること自体を許さない)ような法律にしたのですか?
殺人とか強盗とか、人を危険な目に合わせる行為は当然法で規制すべきです。
でもホームレスが仕方なく、しかも公有地で寝泊まりする程度なら、本来大目に見れる程度の迷惑度でしょう。
そのぐらいの迷惑お互い様として我慢することすらしないような不寛容な法体系ってどうなんですか?
はっきりいってそれならセクハラのほうがよっぽど個人の我慢に任せず(刑)法が手を差し伸べていい事柄だと思うのですが、そっちのほうがよっぽど野放しって…。ホームレスを弾圧するよりすることがあるでしょ!って思う。
共同親権の認可を盛り込んだ民法改正案の骨子が見えてきてから、共同親権界隈は大揉めだ。柴山・牧原といった共同親権推進派議員達には、いわゆる別居親たちからの非難が殺到し、「騙した」だの「裏切り」だのと不穏な言葉が飛び交っている。
どういうことか。自民が了承し、今国会に提出する予定の民法改正案では、こうした推進派議員が共同親権界隈の後押しを得ながら主張してきた「原則共同親権」が実現しなかったからだ。父母どちらかの単独親権を義務付ける規定はなくなり、父母の協議と合意によって共同親権を選ぶこともできるようになる(選択共同親権)。多くの人にとっては、既存法体系との整合性もある程度保ちつつ、共同・協力して子を監護できる良好な関係の元配偶者達に対しては共同親権への道も開かれた、穏当で合理的に感じられる改正だろう。
ところがどっこい、ネットの共同親権界隈・別居親界隈というのはそういう話が通じる世界ではないのだ。詳しくは別のエントリ(共同親権推進派の界隈、色々すごい)で書いたが、この人達は基本的に「他責・他罰の共同体」である。離婚に到った理由について省みることなく、妻に「出て行け」と行って出て行かれたら「連れ去りだ」と騒ぎ立てたり(棋士の橋本崇載がその典型)、「少し叩いたぐらいでDVとか言い出した」「厳しめにしつけないと女はわからない」「面会交流する気がないなら訴えてやる(←これを妻ではなく子供に向かって言う別居父がいるのだ!)」みたいな有毒な男性性をみんなで承認し合って怪気炎を上げている、そういう界隈だ。
新法案では高葛藤(≒夫妻の関係が壊滅的に悪い)ケースや、DVのおそれがある場合は共同親権の対象から除外される。そして、ネット共同親権界隈というのはこれだけで適用NGになってしまう人達の吹きだまりだ。自分の見立てでは、この人たちの多くが本当に求めているのは、子の監護権そのものというより、「自分を見捨てた/裏切った妻子を見返すこと」であり「失われた男のメンツの回復」である。そして原則共同親権の導入という法改正は、それを労なく自動的に成し遂げてくれる福音のはずだった。しかし現実はそうならなかった。だから「俺たちには何の恩恵もねーじゃねーか! 嘘つき!」とキレ散らかしている。
今回の法改正にあたっては、法務省の要綱原案に対して、より共同親権界隈の主張に近い自民党PT案が出ていたが、基本的な線では法務省案が生かされた形になっている。共同親権に反対する法実務家側にもそこを評価する声が出ている(廃案すべきだと主張してはいるものの、要綱のなかで死守すべき要素は維持されている、という評価)。柴山議員たちは共同親権界隈に向けて、色々なことを口約束して支持を取りつけてきたが、実際の改正案にその多くが盛り込まれず、終わってみれば「真っ当な元夫婦同士なら、離婚後も共同で子育てできるよ」という穏当な落としどころになっている。おそらくこの改正案が可決したら、共同親権に関する法的議論はもう決着だろう。後に残るのは、満たされなかった期待に対して、非難すべき相手を探し求めて彷徨う「他責・他罰の共同体」の怨嗟の吠え声である。そして今のところ、その声は柴山ほか「共同親権推進派議員」に向かいつつある。
登山道というほどではないけど山の道って感じの道はあるじゃん?舗装されてて車も通ってるけど、道の外側に建物があったり誰かの庭だったり軒先だったりとあからさまに誰かの土地感があるわけじゃなくて、藪や木が果てしなく広がってる感じで突き進もうと思えば進めるようになってる道。
かりにそうじゃないとしたら、誰かが持ってる山の部分に国だのなんだのが勝手に道を敷いていることになるんだから不自然だ。
で、仮に森林地帯のうちの、道も、道じゃないところも、公共の土地という点で共通なのだとしたら、なぜ道は自由に通行してよく、そうじゃないとこは入っただけで違法なんて扱いをデフォルトにしたのだろうか?
どっちも公共の地面なんだから、原則自由に通行できるようにすればよかったんじゃないの?
自然保護目的で踏み荒らされたくない場合に限って国だのなんだのが個々に決まりを作るというブラックリスト方式のほうがルールとしては素直でシンプルだと思うのだが。
地面自体、人が移動するために存在しているという側面があるのに、道以外の地面を移動のために利用してはいけないとは不自然だろう。地面による二次元的な移動ではなく、そのうちのごく一部分の道による一次元的な移動しか許していないのはただ不便さを増しているだけだろう。
そもそも、すべての土地に所有者がいるという前提に立っているのがおかしいと思う。
「国有林」という概念があって、これは明治維新の際に藩有林、社寺有林、所有が明確でない森林を継承して成立したという。
「所有が明確でない森林」というところに注目してほしい。あたかも不明なだけで所有者がいるみたいな言い方だけども、これには正真正銘「誰の土地でもなかった土地」が含まれていたのではないか?
つまり誰も存在を認識していなかった土地があったはずで、これを伊能忠敬が作った日本列島の海岸線の地図という、日本の土地全体を俯瞰的にとらえる手段のおかげで、その地図から誰かの土地だと確定している部分を全て取り除けば、それ以外の場所は全て所有が明確でない土地として間接的に存在を把握できるようになったというところだろう。実際は誰も見ても足を踏み入れてもいない土地(誰に帰すべき実効支配性がない土地)なのに。
(もし全宇宙の地図があったら、その何万光年先の直接見たこともない空間について「ここは俺の土地だ」と主張するようなものだ。伊能忠敬は日本列島においてこのバカげた主張を形式的に可能にした。)
そういう土地を無理に国有林化しただけの話ではないか。もっと素直に「誰の土地でもない土地」と別区分にすればよかったのではないか?
誰の土地でもない土地というのは、誰にも占有する権利はないということだ。ゆえに誰が移動の用に足を踏み入れても問題ないということになる。
誰の土地でもないので、ぶっちゃけそこに勝手に家を建てても問題はない。早い者勝ちだ。ただし別の人がその家を打ちこわししても問題ない。問題ないというのは語弊があるなら「その家を建てた人がその土地での所有権を根拠に狼藉を主張することはできない」ということだ。
つまりこの場合器物破損だし、この公有の空間のなかで先にいた人を後から来た人がそこを自分のお気に入りの場所として見出し喧嘩になったら暴行罪だし、というように、個々の事例に合わせて既存の法律で裁くべき問題ということになる。
頭でっかちに「すべての土地は誰かの土地だ」という固定観念ありきで法律を作ったために、はっきりいってスマートじゃない法体系になってると思う。
なぜ「誰の土地でもない土地」と別に難しくもなんともない概念を素直に受け入れられなかったのだろう?
dorawiiより
"24/1/28 「生成AIの『学習』は学術用語だ」ということをそろそろちゃんと説明した方がいい"
https://saize-lw.hatenablog.com/entry/2024/01/28/210053
いまだにこのレベルの内容がバズってるのを見ると少し辟易させられるが
考えてみると、ちゃんと技術を理解してる人間すらこのレベルのことしか書けないのは
対話の場がなくお互いの言葉尻をとらえてる状況が悪いと思うので少し整理して書こうと思う。
・著作権をめぐる法理が日々変化しつつあることが理解されていない
という二重の難しさにある。
単に概念的に難しいというだけではなく、日本においては法制度の実装レベルですでに混乱が生じている。
とくに生成AIと著作権を語るにあたっては「フェアユースという発想に賛同するか否か」という観点が必要不可欠なのだが
一足飛びに機械学習だけ著作権法30条の4によってフェアユース的発想が導入されているという
非常に奇妙な状況になっている。
フェアユースとは何か、というのは非常に難しい。
「一定程度の公正さがあれば具体的な類型を列挙しなくても著作権を制限できるという考え」
とでも要約できるが、これだけでは意味不明だろう。
英国にフェアディーリングというものがあるが、こっちの「公正さ」はわかりやすい。
「非営利かつ研究や教育目的、批評、報道などの場合は著作権は制限される」ということ。
たとえばこれがなければ公営の学校や図書館は莫大な支払いに追われ成立しえない以上
「公正さ」のために著作権を制限してよいという発想はわかりやすく
近代以降の文明国でこれを否定するような法理はまず存在しえないだろう。
フェアディーリングそのものではないが、EUの情報社会指令第5条なども同じように
「公正さは基本的に非営利や少なくとも公益目的、かつ具体的にあらかじめ列挙される」という発想である。
「営利でも、今までに判例がなくても、抽象的な議論で公正さを主張できれば新しく著作権を制限できるケースを創れる」
ただし、元の著作権者の利益を「不当に」害さない範囲で。何が不当か?それはよくわからんので最高裁まで争いましょう。
一見すると無茶にも思えるが、現代人の多くはこの法理の恩恵を受け、著作権を制限することで利益を得る側だ。
フェアディーリングの発想だけでは、検索エンジンのサジェスト機能すら著作権的にアウトということになる。
それを「フェア」にしたのは、米国著作権法に組み込まれたフェアユースの発想なのだ。
サジェスト機能だけでなく、情報技術を用いた新サービスが興るたびに多くの裁判が発生している。
ただし問題点は、それがフェアユースだと認められたとしても、EUの法理で「いや、この機能は著作権的にアウトだ、金払え」ということも現時点ですら可能であるということだ。というか実際にそういう判決はそれなりの頻度で発生している。
だってフェアユースはあくまで米国を含む一部の国でしか確立していないのだから。
しかし、現実問題として、それなりに有用なwebサービスを立ち上げようと思えば、まずフェアユース的発想に頼らざるを得ないだろう。
そこでいわれている「引用」は基本的に紙媒体で実名の人物が著作で相互引用する低速で静的な状況を想定しており
インターネットでアルゴリズムやボットを含む様々なエージェントが高速で動的に情報をやり取りする状況は考慮外だ。
もちろん、法の運用上はそれらに解釈を加え、少しずつ判例を積み重ね、法的に許される状態を少しずつ拡張していくわけだが
その結果が「サジェストは権利侵害です」となるのと、「フェアユースなので許可」となるのとでは、新サービス市場の発展速度が圧倒的に違う。
これらは基本的に著作権侵害であるが、訴訟を起こす利益などが小さすぎるため放置されているに過ぎない。
しかし例えば、訴訟が大幅に簡素化・自動化され、二次創作やミームが不可能となる社会を人々は望むだろうか?
究極的には、「どちらを選びたいか」という話になってくる。
もちろん、自分でどちらかを選びたいからと言って、それが自分の国の法理として実装できるかというと、大抵はそれは別問題だ。
フェアユースの発想を頑として認めない米国民がいたとして、如何なロビー活動の天才でも、死ぬまでに合衆国法典第17編第107条を改正するにこぎつけるのはまず不可能だろう。
逆に欧州の新進気鋭の政治家がEUの現状を憂い情報社会指令第5条を全面撤廃・改正してフェアユース的発想を導入できるだろうか?
全政治生命を賭したとしても、やはり死ぬまでにやり遂げるのは無理だろう。
すでに著作権法30条の4が存在しているというのがそれを端的に示している。
しかもそれほど政治的な紛争もなくぬるっと成立した、としか言いようがない成立過程である。
これは「元の著作物に表現された思想又は感情の享受」以外なら、営利目的でも無許可で機械学習を行っていいとするものだ。
ただしここにはやはり「フェアさ」は必要で、その条件は「元の著作権者の利益を不当に害さない」という抽象的なものだ。
現時点では確固たる判例はないので、大型の訴訟が起きてから決まることになるのだろう。
前述したとおり、日本の著作権法にはもともとフェアユースの発想はない。
それにもかかわらずいきなりこれがぬるっと成立するというのは、ある意味特殊な日本の政治状況、法体系の面白さというほかない。
ぬるっと成立した以上、ぬるっと撤廃されることだってありうるのだ。
ともかく、日本においてはいろいろロビー活動の余地、法改正の可能性、政治闘争で結果が変わる余地が多分に残されている。
だが以下は整理しておくべきだろう。
・フェアユース的発想を認めたとして、生成AIの利用はどのような具体的なケースでどうフェア・アンフェアなのか?
これは非常に難しい問いだと思う。私が答えるなら
(1)
フェアユースは認める。そもそもインターネット時代にそれ以前の著作権法を解釈と判例でそのまま運用する発想は無茶。
二次著作物の利用や検索エンジンなどのwebサービスを「基本はアウトだが、訴訟コストが支払えないから事実上セーフ」という現状はいびつすぎるのはもちろんのこと、訴訟コストが簡素化されてそれらが制限される状況が公正とも思えない。
(2)
生成AIにおいて元著作物と生成物の市場での利用形態が完全に競合する場合はフェアユースを認めたとしても「不公正」といえる。そもそもフェアユースはあくまで「新しい市場の開拓」という米国的な大義名分があって初めて成立する。
イラストを売っている販売元と同じようなプラットフォームで再販売するような場合は市場拡大していないし不公正だろう。
逆にそうではないケース、元データの市場と新データの市場がバッティングしない場合にはフェアユース的発想で公正とされると思う。
というあたりになるだろうか。
ここ最近、憲法9条って実は良いんじゃないかと思うようになった。
① 中東情勢には心を痛めているが、いざ改憲してアメリカや国連から派兵要請来たら「No thank you…」な感じだろう。特に宗教関係で巻き込まれるのはごめん被る(パレスチナ解放戦線のしたこととかマジ勘弁)。9条掲げて距離を取りたい。
いや、本当にあそこらへんの問題は、俺たちになんの関係あんの?
② ウクライナ情勢も、ロシアは日本の隣国ではあるが、基本的にNATOとの角の付き合いだろう。人道支援に文句は無いけど、9条を盾に実働は避けたい。
③ こう書くと敗北主義だとか言われるだろうが、自衛隊は現在の法体系のなかでは、ある程度動けるから、とりあえず9条ぶち上げとけばいいんじゃないかと考えてる。むしろ、改憲派は①や②に積極的に関わりたいん? 専守防衛でいいやん。
自衛隊の位置付けについては、日高義樹の本とか参照。ただ、本当に自衛隊の不祥事多いよね〜
熟語を分解して変な意味で捉えてることが、キチガイないし異世界人だなっておもってるところは変わってないだろ。現代の日本とは違う法体系や語彙を使う世界から着た人なんだねって言ってもそこは変わらんでしょ。
じゃあ前者の部分ですでに異世界人を思考回路が違う人の意味で使ってることが確定じゃん。
あとまだ条文まであげたのにキチガイということが医師法違反に当たらないとごねてるお前がおかしいよ。頭の中の法体系が実際とずれてるのはお前だろ・
はいただの詭弁。LGBT等の権利の拡大や保護と他者の権利の尊重をごっちゃにしている。
LGBTに代表される今まで不当な扱いを受けてきたマイノリティを尊重し、平等な権利を与え平等に接するべき。これは分かる。
だがグルーミングに関しては逆に「判断能力が未熟と思われるものを保護すること」こそが総体的に見て他者の権利の拡大に繋がると考えられるから世界的に法整備も進められてきてるわけでしょ。
だからこの国では成人年齢は引き下げられても性交同意年齢は引き上げられたんでしょ。全然逆じゃん。
よって本件について手放しで祝福する前に慎重に判断して心の中で是非を問うことはむしろ時代の変化に敏感な人間なら正常な反応の範囲内。
法体系も社会的意識もそういう方向に向いているのが現状なんだから、当然憶測で不当に叩いたり侮蔑的な表現を向けるやつは論外として、今回の件に違和感や嫌悪感を抱く人がいることは何らおかしくない。
むしろそういう小さな違和感や嫌悪感こそ尊重して否定せず、感じたままのことを心の中できちんと育て上げていくべきじゃないの?
そういう類のものに蓋をして無自覚な社会を作り上げてきた反省として生まれたのが現代の一見過剰とも取れるポリコレ社会なわけでしょ。
んで、「医師じゃない」と名乗ったうえで、医学的アドバイスをするのはどうかという問題ですが、これは実はNGです。
・少なくとも医学的に正しいと分かっていることだけを伝える
・アドバイスはせず、とりあえず病名だけでも伝える
法的には、これら全部駄目です。
ですので、知恵袋では「正しいかどうかの確認を、質問者本人が自分で必ずやってください」という免責事項をつけています。
「回答者のいうことが間違ってても知らないよ」ってわけですね。
逆に言えば?サイト側で免責事項をつけてなくても投稿者が書く書き込みの内部で「信憑性は保証しない」と一言書いてれば、病名とかアドバイスとか書いても合法になるってことか?なんかそれおかしくね?
医療的なことを言うからにはそもそも信憑性を保証しないこと自体許されない、保証できないなら言ってはならない、保証しないと断っても医療的なことを医師じゃない人が書けばアウトってなってそうなもんだが…まともな法体系ならどう規制するだろうかと推測するとさ
https://www.sankei.com/article/20230220-PQDZSMO6ORMX5GHJ5BHHAZOCGM/
同性婚法制化は和式リベラルが「ウリ」や「棍棒」にできるイシューではもはやない。
なんで自民支持の若者は同性婚法制化に賛成なのか。悪い大人に騙されてふだんうっかりウケーカしてしまってるだけで本当は政治的に正しい、よい子なのか。
とりあえず思いつく理由は以下の三つ。
周りに疎まれても法の許す範囲で己を貫こうよというのではなく、後ろ指さされるリスクを取ってまで他人に干渉したくないよという、空気の個人主義。
マイノリティ当事者が社会に権利上の訴えをしていく上でそれはむしろ壁になる。自分のことで他人を巻き込んで騒ぐのはどうかと思いまーす。でも天王山的なポイントを越えると追い風になるんだな。鈍重で無責任な羊の群れ。
同性婚の法制化は既存制度に「同性でも可」と機械的に付け加えるだけで済む話ではない。法体系の中でいろいろ軋みというかハレーションを起こす。そのいちいちにパッチしていかなければならない。
外付け拡張でとりあえずどうにかするだけじゃなくて、根本のところにも手を入れる必要がある。
「じゃあそうすればいいじゃん」というのが若い世代の感覚だろう。憲法にだけは触れずにという宗教上の理由による謎ルールを共有していないので。
若い世代ほどドメスティックなものや伝統的習俗を疎んじる傾向というのは普遍的なものではない。大きな波がある。ざっくり言って80年代末くらいからは「伝統、むしろカッコイイ」フェイズだろう。
その流れになんとなく乗って、二人の契りをお国が裏書きしてくれる制度にイニシエーションとしての価値を置いている。個人の選択として生涯未婚だとしても「結婚に何の意味があるかわからない、興味がない」のではなく、いろいろ事情があった上での決断としてそうするに過ぎない。
同性婚の法制化推進は、国が認める正式な婚姻という枠組みを重視する点では「保守」的センスにむしろ沿っているのだ。
婚姻の制度的枠組みをいじるということは「そもそも結婚ってなんだっけ」という原理的問いを前景化させることだ。「同性カップルだけ婚姻届出せなくてかわいそうだよね」「そうだね、じゃあ同性もOKにしよう」だけで話は終わらない。じゃあポリガミーは? そもそも必要なもの?と続くことになる。
そもそも婚姻は法律より前からある。当たり前のことだが、結婚とは原始時代からの土俗的慣習と現代法のアマルガムなのである。
生活者は忙しい。制度なんてうっかり変えてみればいいんだよ。それで人生狂う人も出るかもしれないけど、法律ってそういうものだから。実社会で対照実験はできない。