はてなキーワード: 信仰心とは
友人(オタの人には割と多い感じの信仰心というほど強くはないがメジャーな声優は有難がるようなライトな声オタ)が、
テレビCMで声優だけ見て「へ~行こうかなぁ~」って言ってた。
「え、今の幸福の科学の映画だよ」って教えたら速攻でえ!?じゃあやめよ、って感じだったけど、
宗教とか興味ない世代の人にとってはただの声優アニメの宣伝に見えるんじゃないかな~。CMだと声優しかわからないし。
声オタの人は小清水は絶対に許さないけど「子安」って言葉にはなんとなく興味持つ人多そうだし…。
「だってまさかカルト宗教が声優アニメ作ってるとか絶対に許さない」と友人。
ですよね。
私の友人のジョンは敬虔なキリスト教徒だ。 ミサへの参加はもちろんのこと、教会が主催するボランティア活動にも積極的に関わるし、日々の祈りもかかさない。 日本へ移住したのも布教活動のためだと言うし、日本語は実になめらかである。 このバイタリティが信仰心から生まれるものなら宗教も悪いものではなかろうかとさえ思えてくる。
私自身は典型的な日本人がそうであるように無宗教に近い仏教徒だ。ジョンと友人になった経緯は既に延べた通りだが、思いおこせば奇跡的な出会いと思わざるを得ない。
さて、最近のジョンは日本のサブカルチャー、とりわけアニメに感心をもったようで、日本では誰もが知っているアニメというと何だろうと私に質問してきた。
「ポケモン」や「サザエさん」といった定番のものを紹介し、最後に「ドラえもん」を紹介した。するとジョンは「ドラえもん」に対して異常に怯えはじめた。 ドラエもんの中には悪魔がいるというのだ。
言われてみるとDORAEMONの中にはDEMONがある。 そして、ねこ大好きな純朴な人々に自分は猫型だと偽るなど実に悪魔的な諸行ではないか。そんなことにも気付かずに我々はドラえもんをほほえましい人間の味方と騙されきっていたとは自分の馬鹿さ加減に呆れる。
未だ自分が悪魔に騙されていると気付いていない愚かな悪魔崇拝者どもの目を醒させるために我々は活動を開始することにした。 この事実を広めていこうと思う。 皆にはこの文章をなるべく多くの目に触れるようにコピペしてもらいたい。
Kill DORAEMON, Kill DAEMON !!!
「神の前」「厳粛」ってんなら普段の信仰心はどうなの? 日曜に教会行ってるとか、そういうところまで含めてつっこんでみたら?
あと神は子供を閉め出すようなことを喜ばないと思うよ、地獄へ行くと思うよ、とかさ。
これがまさに僕がとらわれている考え方だと思います。
子供閉め出し=悪。で、この悪を行いながら、神に誓いをたてるとか、はりぼての誓いじゃんか。そんなうそ臭い茶番絶対できるかー。。てな風に考えています。
はてサっぽくて気色悪い考え方だが、元増田が絶対に意見を変える気はないと言っている以上、妻側をどうにかする方法を考えるべき。
「神の前」「厳粛」ってんなら普段の信仰心はどうなの? 日曜に教会行ってるとか、そういうところまで含めてつっこんでみたら?
僕には少し前に入籍を済ませた妻がいて、結婚式を計画している。
妹は僕の結婚をとても喜んでくれていて、旦那さんと赤ちゃんと3人で行くからね、式を楽しみにしているよ、と言ってくれた。
これに妻が難色を示している。
ずっと、厳粛で静謐な式を挙げたいという夢があった。
赤ちゃんは突如泣き始めたりするので、それで式の厳粛で静謐な雰囲気が損なわれるのが耐えられない。
なので式の間だけは、ベビーシッターを雇って式場に待機してもらうので、シッターに預けてもらいたい。
もしくは、入り口付近とか、泣いたらすぐに出られる所に座ってもらいたい。
以上を、僕から(僕の)妹に伝えてもらえないだろうか。
もちろん披露宴は、お客様に結婚を披露し我々がおもてなしする場なので、赤ちゃん含めゲスト全員に出席していただいて構わない。
ただ、神の前に誓いをたてる、一生に一度の式は、二人のためのものだと思っている。
だから私のこの希望を反映させてほしい。
(ちなみに妻は、赤ちゃん自体は好きだし、妹の赤ちゃんも可愛がってくれている。)
厳粛な式というコンセプト自体はわかるけど、
ゲストに釘を刺したり注文をつけたりするということはゲストを信用していないということだし、失礼だ。
来てくださったゲストを「あなたは出席OK、あなたは外にいて」と、主催者側が選別するのは傲慢だ。
傲慢な選別をした上で見かけ上「厳粛」な式を挙げて、何になるのか。
挙式中どこに座るか、赤ちゃんが泣いたらどうするかは、あくまでゲストを信頼してゲストに委ねるべきだ。
もし本当に泣いてしまって、(現実的には考えにくいが)妹がそれを放置する様なことがあれば、
当然式場の担当者に外に誘導してもらう。
それでさえも「厳粛な式が損なわれる」と考える様であれば、ついていけない。
二人の式にお祝いに駆けつけてくれているゲストを選別したり注文をつけるような事はできない。
歩み寄りの余地は無い。
(ちなみに僕は 1.二人だけで挙式、2.結婚式をやらない という代替案を出したけど、どちらも却下された。)
ということで話は平行線です。
彼女は、「あなたは自分の価値観を守ることばかり重要視して、私の気持ちを理解しようともしない、希望を叶えるにはどうすれば良いか考えてくれさえしない。」と言って失望している様子。
僕は僕で、彼女の考え方は傲慢で失礼だという思いから逃れられない。
で、対立が対立を呼び、ついには離婚も視野に入ってきてしまっている状況。
小町あたりで書いたら僕が吊るし上げられるネタだと思うんだけど、ここの皆さんはこの対立をどう思われますか。
解決案、お叱り、励まし、なんでも結構です。
ちなみに、妻と僕の実家は、僕たち夫婦にまったく口出しをしてこないでいてくれる。
なので、家どうしの対立という要素は皆無で、あくまで妻と僕の間の対立です。
妹に、妻の希望を伝えるぐらいはしてもいいのではというご意見いただきましたが、
僕としては、お招きしたゲスト(妹)が、夫と子供を連れてくると(好意で)言っている以上、それを歓迎すべきだと考えました。
それに対して妻の希望を伝えるということは、赤ちゃんは連れてこないでねという暗黙のプレッシャーを掛けることになると思っています。
お招きするゲストにそういった「連れてくるなよオーラ」みたいなものを示唆することは、ホスト側として失礼で傲慢だと、どうしても思ってしまいます。
たくさんのTBありがとうございます。
嫁も「自分の価値観を守ることばかり重要視して、夫の気持ちを理解しようともしない」ように見えるのだが。嫁が譲歩しているのはどの点だ。
しかし議論の末、披露宴は譲る、という事になりました。
また、式中は本当は外にいてほしいがそこは譲歩して、泣いたら出て行きやすい席に座ってもらうだけでもいい、
とにかく厳粛な式がやりたくて赤ちゃんが泣いたらぶち壊しになると思っている事を、妹に伝えてほしい、
あとは伝えられた側に任せる、というスタンスです。
で、結局僕が引っかかっているのは、妻が赤ちゃんを少しでもNGと思っていることそのものな気がしてきました。
という僕の考え方が根底にあり、赤ちゃんNGというのが、凄く偏狭な考え方に思えてしまいます。
当然赤ちゃんが嫌いな他のゲストもいるとは思いますが、妹・その子供・夫については、友達とかではなく、僕の家族なんですよね。
だから、すみませんが家族は寛大に受けれてほしい、拒否しないでほしい、という思いがあります。
また、妹夫婦は非常に遠方に住んでおり年に一、ニ度会えるか会えないかで、相当な手間をかけて来てくれるので、こちらからの注文は極力つけたくない、という気持ちもあります。
それが疑問だ。
結婚式には何回も出席しました。
子供や赤ちゃんがいる式も何度もあったし、泣き始めたら必ず母親がすぐ外に連れ出していたし、それで場の空気が悪くなるという場面も見たことがありません。
むしろ、神父さんが誓いの言葉を読んでいる時に赤ちゃんがフギャーとなって、皆がクスクス笑ってほほえましいムードにつつまれる、という様なシチュエーションしか経験したことが無いんですよね。
だから妻から参加NGと言われるまでは、式で赤ちゃんが泣いて眉をひそめるとか、そういう人がホントにいるの?という感じでした。
さらに多くのTBありがとうございます。
シッターに預けるよう妹に伝えても妹は失礼と思わないのでは?というご指摘をいくつかいただいてますが、その通りです。
妹は無理に赤ちゃんを連れてこようとしているわけではなく、僕が断ったり、式の時は外にいてと頼んだ場合は、その通りにしてくれます。
単純に、遠方で泊まりの旅になるので、置いていきにくいという理由と、兄である僕に赤ちゃんを見せたいという理由で、一緒に行くと言ってきた様です。
なお、僕自身にもし赤ちゃんがいたら、止むを得ない理由が無い限り、人の式には連れて行かないと思います。自分も大変ですしね。
この件は、妻が式への赤ちゃん参加をNGと考えている事自体を僕が認めることができない、という話だという気がします。
僕はこの件だけに限定すれば、譲歩はしていません。
彼女の譲歩案は根底が「赤ちゃんはNG。厳粛じゃなくなる。」というこだわりに貫かれており、いっぽう僕は、妻のその考え自体に引っかかっているので、譲歩の余地がないんです。
かなりどうしたらいいのかわかりません。
この先、子供が生まれて、赤ん坊が泣くたびに「なんで、こんなにギャーギャー泣くのよ」ってヒステリー起こすの目に見えてるもの。暗い家庭になりそうだ。
僕も同じことを妻に指摘したんですが、赤ちゃんそのものが嫌なわけではないとのこと。
あくまでも、厳粛な式という夢があり、その理想を叶えたいがために大人だけで式を行いたいとのことです。
僕は、夢見た一生に一度の式だからといって、自分の家族を、例え赤ちゃんでも、入場お断り扱いにする/もしくは泣いたらいなくなってとあらかじめ釘を刺す、ということができません。(泣いたら/泣きそうになったら出て行くのは当然だとは思います)
厳粛な式が夢だったことはわかるし、だからそれなりの会場を見つけた。
だからといって、家族(の一部)の出席を断るのはやりすぎなんじゃないかと思うんです。
家族を一部締め出してまで行う「厳粛な式」がナンボのもんじゃい!と思ってしまいます。
ちなみに今回、僕の妹の赤ちゃんの話なので僕の家族びいきに見えるかもしれませんが、彼女側の家族の赤ちゃんが相手でも、僕は全く同じように感じ反応します。
これまでに書いてきた話は、ほぼ全て妻には伝えました。
でも結局「なぜ私の夢を無視するの、ゲストのことばっかり言うの。」という話になってしまいます。
夢を無視してるんではなく、夢を実現するには、家族を式から締め出すという(僕にとっては)傲慢な事をやらないといけなくて、それがどうしてもできないんですが、話はまったくまとまりません。
「神の前」「厳粛」ってんなら普段の信仰心はどうなの? 日曜に教会行ってるとか、そういうところまで含めてつっこんでみたら?
これがまさに僕がとらわれている考え方だと思います。
子供閉め出し=悪。で、この悪を行いながら、神に誓いをたてるとか、はりぼての誓いじゃんか。そんなうそ臭い茶番絶対できるかー。。てな風に考えています。(ちなみに二人とも特定の信仰はありません)
自分の善悪基準を人に押し付けようとしている(正確に言えば、自分の善悪基準のために、人の要望を聞き入れられない)わけだから、僕の方が傲慢じゃないかというご意見は、確かにごもっともだと思います。
ただ僕がこの様な善悪基準を持っている事自体は、しかたないというか、自分ではどうしようもありません。
問題は、妻が、僕の善悪基準でみたら悪に属することを切望している。この時僕は妻の願いをかなえてあげらるのか、という事ですね。
それが今の僕にはできていません。
それを叶えてあげるのが、愛なんでしょうか。
なんだかよくわからなくなってきました。
たくさんのTB、コメントにびっくりしてます。ありがとうございます。
一点補足です。
上で、神が。。とか地獄が。。とかという話を書いたので、少し誤解を招いた部分があるかもなんですが、
僕自身は、神とか地獄とかいうことを考えているわけではないし、宗教的な素養や意識は、全くないです。
式はキリスト教式でも神前式でも人前式でもなんでもいい、とにかく真剣にこれから一生一緒にいるために宣誓するわけです。
その場を嘘くさいものにしたくないという気持ちが強いんだと思います。
(あくまで僕の価値感ですが、)「子供締め出し=悪いこと」であって、そういう悪いことを裏でやりながら、真面目な顔して「誓います」とか言うのがどうしても、嘘くせー、ウケるわその茶番、あほか、という風に感じられてしまう。
映画「アンタッチャブル」に、デ・ニーロ演じるアル・カポネが、人を暗殺しながら、同時にオペラを感動して泣きながら観てる場面があるんだけど、それと同じような「なんだそれ感」というか。。
そういう「嘘くさい」事を「厳粛」と認識し積極的に望む妻に、がっかりしてしまっていました。期待と現実のギャップへの失望。
客観的には、潔癖すぎ、頑なすぎだし、自分の価値観を妻に押し付けるな、というご意見も、ごもっともだと思います。
ただ、こういう式を「嘘くせー」と感る自分の価値観自体は、これまでの人生で身についてしまっているもので、どうにもならない。
要は
・「嘘くせー茶番」とどこかで感じながらも、「でも妻が幸せならいいや」と思って妻の譲歩案を飲めるかどうか
・かつ、自分が「嘘くせー茶番」と感じるものを「厳粛で静謐」と感じる価値観の妻を、僕が受け入れられるかどうか
だと思います。
ちょっと違うのかもしれませんが、同じような経験をしたことがあります。
わたしの場合、完璧な彼を壊してしまうような気がしてアクションが起こせませんでした。
元増田さんの彼と同じく、特別ハンサムというわけでもなく、押しが弱いといわれるくらい、穏やかで優しい人でした。
それでも、わたしにとって彼は完璧すぎました。
わたしが入り込む余地もないし、入ってはいけないような気がしました。
いまでも彼との付き合いは続いていますが、遠くから見ているときのほうがずっと楽しい。
新しい彼女ができたと聞いても一緒に喜べます。
彼の姿を見ると、とても幸せな気持ちになります。
大げさに言うと「こんなにすばらしい人がいるのだから、明日も生きていける」みたいな気持ちです。
わたしは無宗教ですが、彼への気持ちはもう信仰心に近いと思います。
そういう愛の形もあるのでは?と自分を納得させています。
もう我慢ならん。
「気持ち悪い」
何が気持ち悪いか、まず活版印刷の行き過ぎた情報集中管理が気持ち悪い。
聖書のどの節でもすぐに把握できるようにする、確かに便利だよ
でもさ、面白くネーの。「信仰」が。ミサに行く前に、分かった気になっちゃうから。
あ、話それるけど、リアルで「聖書みればわかることを聞くな」とかほざく情報強者(笑)がいたら直ちに首を吊ってほしいなぁ。
んなこと分かってら。書いてあることを知りたいんじゃねぇよ、おまえとイエス様の話がしたいからお前に聞いてんだよ。
空気嫁よ。信仰心の通ってない情報強者(笑)乙。とうとう信仰心まで印刷文字にされたんだな
親「ミサに行こう」
子「じゃ、聖書で神父様が今日話す内容をくわしく調べてくる!」
こんな会話がもうリアルにありえるわけ。「印刷された聖書でも一緒だろ?」と思う人もいるだろうが、全然違う。
説教なら、聖書の解釈とか結構アバウトだったから、漏れのエピソード語ると、夏のある日、朝早く起きてとーちゃんとミサ行って、朗読された一節を忘れたことがよくあった。
福音書が特に稀少だった。だから、やっと覚えた一節は本当に大事にしたよ。なかなか覚えられないことで、いろんな工夫を考える。
それだから暗唱できたときの喜びはひとしおだし、苦労して覚えた言葉は余計に愛しかった。
一方グーテンベルグ聖書は福音書、章、節、文章まで明らかにする。このページをに見れば「確実に」読めるという情報が手に入る。
グーテンベルグ聖書は「自分で考える」ことを妨害している。聖書の普及(笑)のために、話を聞く喜び、信仰を大切にする心を奪い取っている。これでいいの?
「聖書読めば分かることだから」と考えない子供が大人になって、いざ未知の問題に直面したときが怖い。
むしろ読んでも分かんないことだらけということに気づけない、「聖書読めばば何でも分かる」と考える子供を「グーテンベルグ聖書」とかは増やしている。
確かに活版印刷は道具で使い方次第だよ、でもその使い方を親たちが知らない、教えない。神父様の話など素直に聞くのは田舎の小学生低学年までだ。
少なくともこの印刷物が溢れるの現状を子供には見せられない、というか見せたらイカン。
漏れに今何ができるか、活版をたたき壊して今日ミサに出かけることぐらいか。
それでいい。それでいいんだと思い込むしか今はできない。いまの活版印刷がわからない
信仰心的なものはあると思う。結婚して自分の家庭を持つようになったけど
ご本尊と仏壇は持ってきているし、勤行や唱題(←お経を唱えること)は自分にとって大事な時間。
唱題で元気がでると感じている。
家庭訪問やめれ。
会合にはでないつってるだろ。
「この人をすくってあげなくては!」みたいな目でいつまでも玄関先でねばんのやめろ。
手紙いれんな。
ようやく帰して吐き気に襲われた。
比喩とかじゃなくて、文字通り吐くかと思った。
ストレスってほんとうに体にでるんだなあと妙に感心した。
本当にこのままじゃ自分のためにならないと思った。
来るなって言ってるのに来る人間に対してストーカーを取り締まる法律とかって適用できるのかな?
男女の痴情のもつれじゃなくてもおk?
こっちがご本尊とかを学会に返さなきゃだめかな?
とにかく、もうこれ以上こんな苦しみをなめないためにも
信仰心無しに残るような風習もあれば信仰心によって残る風習もあれば
信仰心無しに残った風習でも後の世の人がそれに信仰心を多少なりとも持つこともあればそれらのミックスとなるようなものもあるだろうね。
あとはさっき13日の金曜日の例を出したけど程度で判断するような問題だと思う。
慣習とか習慣と信仰心って必ずしも一致しないし。
いや別所でtittonがしっかり主張してるだろ。
tittonさんが言いたかっただろうこと
ということは「科学を使って」言える。
しかし、
ということは「科学を使って」言うことはできない。
『科学は水伝が科学を装っている点だけ批判している』という実態が見えないtittonが持論を繰り返しているだけだな。
疑似科学批判は『水伝の実験はダメダメなんだぜ』までで留めるべきで、『だから水伝の思想はダメダメなんだぜ』までは、「科学を使って」言うべきではない。
『科学を使って思想まで批判している水伝批判者』っているの? 誰?
tittonやあんたの脳内にはいるのかもしれないが。
実態が無い物に対する批判的主張は真っ当どころかの無用の長物だって分かるか?
聖杯グッズの科学的な効用を信じて買った人は疑似科学信者になるでしょう。
しかし、科学的な効用とは関係なく「信仰心から」聖杯グッズを買った人も居れば、聖杯グッズに関係なくキリスト教を信仰してる人も居るわけで、そういう人たちに『聖杯グッズの科学的効用の批判をしても信者には効果無い』っていう事は容易に想像出来るじゃないですか。
キリスト教が疑似科学的側面を有するようになれば、キリスト教信者も疑似科学信者と看做されるだろうねというのが、聖杯グッズの例えだろうに。
ところで科学面の批判で信者を説得しようなんて誰がやってるの?
の三種類の人が居る状況で、aにしか通用しない『水伝の実験は科学的じゃない』っていう主張に意味は有るのか?ってことですよ。(ましてやその主張が再三されてaはほぼ絶滅してる状況で)
そして水伝が残り続ける限り、規模や影響度に合わせて批判も残らざるを得ない。
終わりはまあ無いわな。ご苦労な話だが。
対するtittonの主張は、水伝は悪影響があるか分からないとか、将来的に良い物になるかもしれないなんてシロモノだ。
トンデモ以外の何者でもないだろ。
tittonさんの疑似科学批判批判の根本はここかなあ。bやcに対して、したり顔で「水伝の実験は科学的じゃないんだぜぇ」って言ってどうすんの?ってことかな。
『bやcに対して、したり顔で「水伝の実験は科学的じゃないんだぜぇ」って言ってるのって誰だよ言ってみな?』って言われて答えないのがtittonだ。
あんたも同類になりたいってんなら止めないが。
それを踏まえて今回の根本に戻る
で、TAKESANさんに↑みたいなヤツだなあって言ったのが今回の根本かな。
でも、少なくとも今回に関してはTAKESANさんが悪いのは確定的に明らか。
横から口出すならちゃんと状況把握してからにしような。
あんたが間抜けなのが確定的に明らかになるだけだぞ。
みんなもっとちゃんと読もうね!
端的に言えば↓こんなこと(宗教否定論)を考えてる人自体が、人類全体から見れば少数派なわけで。
たとえば「世界各国の宗教 http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/9460.html」見てみると分かるだろうけど、色無しより色つきの部分は圧倒的に多いし、またこのグラフで「無宗教」の中には「特定の宗教を持たないだけで信仰心が無いわけではない or 宗教そのものを否定はしない」という人も含まれていることを考えれば、「宗教否定派」など圧倒的少数だと分かるだろう。
つまり、まず大前提として、『宗教は人間の存在の根源に関わる重要性を持つ。』。
以上。
僕は今まで死んでいた。無益な事ばかりをしていた。非生産的で、怠慢で、無価値なその行動を「死んでいた」と形容する時点でまた、まだ死んでいると言える。
理由は分からない。何が間違っているとか、何が正しいとか、そういう事を考えられる頭ではなくなってしまったから、「なぜ死んでいたか」に対する因果関係はおろか何らかとの相関関係さえ見出せずにいる。
昔を思い出す。それはいつだって良い。物心がはじめてついた時でも、幼少の頃遊びに夢中になっていた頃でも、悲しみに嵌り対人関係を拒んでいた時でも。何か本質的な部分で自分が成長した点はあるだろうか?恐らくない。
だから「死んでいる」。零点にどんな係数を与えても不動な様に意味のない事ばかりをずっと掛けあわせていた。それがその場限りの対処法にはなっても遠続的な策にはならない。そしてその場限りの策を選んだ責任は僕が負い、ロングスパンから見た相対的なマイナスの利益も確実に自分のものになってしまう。誰も本当の意味を教えてくれない。いや、単に僕が何に対しても懐疑的なだけなのかもしれない。
近いものに信仰心に対する疑惑がある。それは往々にして非科学的であって僕としては考慮するまでもない事だけれど、やはり信じるものがないことによる心の隙間はどうやっても埋められない。
今が苦痛なく過ぎることを願い、明日も同じ様に変化のない日である事を望む。それが諸悪の根源だ。
「お前らは間違っててオレは正しい」メソッドを使ってるという意味では、このエントリもまた批判対象と同じく「そんな言い方では伝わらない」書き方になってはいないだろうか。
「叩かれたからって納得する子どもなんていません!」
と自信満々に叫ぶ人、みたいな。
だから、私たちはまず「私はあなたの○○は認めよう。しかし…」というスタンスで、双方が共有できる地点を見つけるというやり方でスタートすべきである。でなければ、あなたの抱えるイライラは解消されないのではないか?
だから私は言おう。【あなたのそのイライラは間違っていない。ただその解消法が、多くの「疑似科学にイライラしている人たち」と同じく、間違っていただけだ。】と。
例のエントリが不毛な言い争いになっているなあ、とは確かに思う。「疑似科学批判」に感情的になる余り『宗教の全てを批判する』ような物言いになってる人が、増田のような人から、「科学教の狂信者」じみていると批判されるのも当然だと思う。だが、そういう批判をしちゃうと「あんた信仰が悪だといいたいのか善だといいたいのか」と逆にツッコまれることになるでしょう?
要するに疑似科学は「科学のコロモ」を利用してるから「科学的に」批判されるのであって、個人が何の根拠もなく信仰としてイワシの頭を神様として崇め奉ろうが涙を流して喜ぼうが、そもそも何の問題も無い。科学と宗教は異なる価値観を持っている、ということさえ押さえておけば、そもそも問題は発生しない。たとえばイエス・キリストの復活を「科学的に批判」したところで聖書の価値が少しも変わらないことは言うまでもないし、逆に言えば科学的であったからといってその「信仰としての価値」が増すわけでもない。そこをハッキリ切り分けておけば、何の不満もない。イエス・キリストの復活を科学的に証明せねば、と必死になるキリスト教徒がいたとしたら、それはおかしい。「科学的に証明されなければあなたはそれを信じられないのか?それはあなたの信仰が浅いということではないのか?」と。
つまり問題は、科学を偽装するという行為が、信仰として低劣だというその一点だけにある。