はてなキーワード: 信仰心とは
なるほど、ここに至って、anond:20081002151938が、信者や信仰心という言葉に結びつけて物事を考えようとする人だってことはいやというほどわかったよ。
前提じゃなくて対象でもいいんだよ。信者かどうかが話題になってたから横から口出ししたんだよ。
そしてどう見てもお前のそれは信仰心だわw文章の内容が正しい、素晴らしい、と言っているんじゃなくてその素晴らしさを実証(になってないけど)することによって喜んでしまってるんだから。
そうそう、そして俺はそこに信者とか信仰心とかがあるとか思ってないんで、それは議論の前提にならないな。
俺は、Internet上に文章があることを紹介した。
そして、anond:20081002150849はその行為がきめぇと反発した。
事実はこれだけ。
一方俺は、きめぇと思う人が未だにいることを再確認して、この文章って相変わらずすごいなと思った。
で、「それこそが信者の証だ」ってのが仮説。俺はその仮説を検証する意味自体がよくわからんので、へぇと思った。で、それをそのままそう書いた。
それ以降は、文章にしなかった前提条件の食い違いの確認作業がここであった。
おしまい。
俺は「やはりそれは信仰心だろうしその発言は信者と思われても仕方ないだろう」ってところから話を始めたかっただけなんだけどね。
別にスルーするのも乗るのも自由だけどそんなもん前提であってわざわざ言うことじゃないさ。
そして俺はお前の一連の行動の意味が未だにわからんぜ。
え?どういう話の流れで物を語ってるの?
俺はそれを信仰心だと思いました、で、お前が「お前は文章に信仰心を持つ人間がいると思っているんだな」で、俺が「普通そう思うんじゃね?」と言ったわけだよな。
それに対してhttp://anond.hatelabo.jp/20081002143350と言われても意味が分からないんだよ。お互いの意見の正しい間違っているって問題以前の話として流れ的に繋がりが見えない。
お前が「文章に信仰心をもたない人間もいるんだよ、俺はそうなんだよ」とかそういう話をしてくれるのなら話は繋がりはするけど。
だから、それを信仰心そのものだと定義してるのはanond:20081002144437でしょ。
俺はそれを何とも思ってなくて、むしろ、そういうのを信仰心だって思う人がいるんだってことがわかるくらいだから。
?
俺がそのhttp://anond.hatelabo.jp/20081002142633であってhttp://anond.hatelabo.jp/20081002142633なんだけどお前の言ってることの意味がわからない。
おかげで、この文章が引き起こした賛否両論の嵐がこうやって未だにくすぶるほど強烈な文であることが再確認できたよ。サンキュー。
それはよくわからないな。だって信者と言ってるのはanond:20081002142633だ。
俺はanond:20081002142633が言う信者が何かは理解したし。
もうちょい冷静にやってくれ。
俺は件の文章を名文だと思ったから紹介した。
anond:20081002142633はそれを信者と言ってきめぇと思って俺にその思いをぶつけた。
で、俺はanond:20081002142633からきめぇと言われたことで、この文章に嫌悪感を持つ人がいることがわかった。
さらに、それだけこの文章に強烈なものがあることがわかって、自分がこれを名文であると思う心(これがanond:20081002142633の言う信仰心ってやつだよね)が強まった。
anond:20081002142633はそれが信者だと再定義した。
で、もうちょっとやる?
とりあえず、anond:20081002142053が、人は文章に対して信仰心を持つことがあると信じている人だということはわかった。
※個人的な意見・憶測が多く含まれます。
(2)あんまり信じてないけど活動家に誘われたら学会活動に参加する人(中間派)
(3)信じてないし活動もしない人(未活動派)
(4)学会に批判的な人(批判派)
おおまかに分けたけど、それぞれの境界にいたり、どっちも兼ねてたり、
しんどい時だけなんとなく信じてみたりする人もいると思う。
学会に疑問を持つこともあるので4も入ってるかな。
昔は1タイプにならなきゃいけないともがいたり
いろいろあって4のど真ん中まで行ったりしたけど、
案外どーでもいいんだって心境になり、現在に至る。
選挙前に電話してきたり、新聞を取るようお願いしてきたりする人。
(1)のタイプの人はあんま気にしてないんじゃないかな。
「外部からの妬み嫉みはほっとけ!」って割り切るかんじ。
でも「学会」じゃなくて「学会員」に対する批判に関してはわからない。
「選挙前だけ電話してくんな」とか「彼女に折伏されて鬱」みたいなのには
やっぱり思うとこがあるかもしれない。
内部にいないとわからないような情報が流れてるし、
実際の内部からの批判も目にするから、
(批判を心の中だけに押しとどめている人も当然いる。)
(4)のタイプを更に細かく分類するとしたら、
a・具体的な批判材料を知ってから批判するようになった人
ずっと執着を持って批判してる人には(4)bタイプが多い気がする。
まずわかりにくいので「未活動」という言葉について。
学会活動に一切参加しない人のことを活動家が「ミカツ」と呼ぶことがあって、
直接どういう意味か尋ねたことはないんだけども
おそらく「未活動」の略だろうと考えてこの名前をつけてみた。
今はまだ活動してないけど、これから活動していくだろう人ってニュアンスかな。
小学生の時にはたくさん地域の会合に来ていた同年代の学会の子が、
社会人になる頃にはぱったり……というのはよくある話。
成長していく過程で、名簿上だけの学会員になったという人はすごく多いはず。
そんなに熱心でない家庭とか、子供の信仰に関わらない家族であれば
前者はこじれると(4)の批判派に転じることもあるし、
学会員の家族を持つぶん、学会批判はかなり刺さってくる。(自分もこのクチ)
批判されても「そういや学会ってそうだよなー」って傍観視できるかも。
「あまり信じてないけど活動家に誘われたら学会活動に参加する人」と定義したけど
これは相当幅広い。人によってスタンスが全然違う。
なのでまた乱暴に分けてみる。
(境界にいる人やどちらの要素も持っている人もいるので要注意)
a・やっぱり信じた方が良いのかなーという気持ちを持って参加する人
c・心底行きたくないけどなんだかんだで連れ出されてる人
ここでいう「(中間派を誘う)活動家」っていうのは、地域の学会員だったり、
(2)aの場合はまだ自分の中の信仰が揺らいでいるので、
学会の内部の声も外部の声も気にしている状態。
学会批判を見たら素直に捉える子もいそう。
(2)bは、信仰についてaと同じように迷っている人もいれば
信仰については固まっているけど、人間関係を守るために付き合うという人もいる。
どちらにせよ学会関係の知り合い(家族・友人)を切り捨てられないって点は同じ。
(2)cも結局bに似てるのかも。
自分の意思としては学会に属するつもりはないけど、
学会関係の人にひっぱられて、はっきりNOと言えず……というパターン。
a・b・cに共通して言えることは、学会内部の人を意識しているということ。
学会の考え方に賛同はできないけど、学会の人との人間関係を壊したくない。
だからこそ学会批判は「自分の身内のものへの批判」として聞こえてくる。
例えるなら、お前の母ちゃんでーべそーを知らない人から言われてるかんじ。
母ちゃんをかばいたくても、母ちゃんがでべそなのは事実だから何も言えない。
でべそが良いか悪いかっていう議論が起きても、
自分自身「でべそはちょっとみっともないかな……」とか思っちゃってる。
でも母ちゃんは好き。たとえでべそでも自分にとっては大切な母ちゃん。
そんな母ちゃんもみんなから見たらただのでべそのおばさん。
こんなジレンマが中間派を悩ませる。未活動派の一部の人もそうかな。
ちょっと話が前後するんだけど、中間派と未活動派についての話。
親しい友人や先輩、家族からの学会活動の誘いを断るのは結構勇気がいる。
一般の人が、学会員(活動家)から選挙の電話を受けるのと大差ない。
「友人としては良いやつだけど創価は無理だわ」みたいな気持ちはどこかにある。
違う点は、今考えているのは二つ。
1つ目は、対象が「友人として」以上に身近な存在であるかもしれないこと。
一番多いのは親や兄弟。あんまりないかもしれないけど親友や先輩。
同じ家に暮らている人を「家族としては良い人だけど」って前置きして語るのは
たぶん不可能に近いと思う。どんなに小さくても葛藤は存在する。
信頼したいしされたいのに、信仰のためにそれが叶わなかったりもする。
ここらへんは前にも書いたとおり、相手との温度差による。
相手が人の信仰を気にしない人だったり、そこまで宗教に篤くない人であれば
2つ目は、「友人としては良いやつだけど創価は無理だわ」の後に続く
自分の家族が信仰を持っていること、自分が学会の近くで育ってきたこと、
学会批判に対して苦い思いをすることなど、
自分を「創価学会に関わっている人間」だと感じる機会はたくさんある。
今さら声高に学会批判して周囲を敵にまわすのもなんか違う。
学会員の良い面も知ってしまったから、もう外部の人と同じ感覚には戻れない。
要するに「きゃあ三色旗だあ、キモーイ」って言える立場じゃないってこと。
信仰心がない学会員の目線で書いたので、(1)活動家についてはかなり不十分。
活動家をひとくくりにするのも変なんだよなー。
一般的な「学会員」のイメージ通りにすごく干渉してくる人もいれば、
組織に疑問を持ちながら折り合いをつけて活動している人もいるので。
いったんこのエントリはおわり。
また関連したものを書いていくかも。
何かを目指して行動するのがちょー苦手。
いったんやることが決まれば全力をつくしてそれなりの結果も出すので
周りからは割と評価されている。
でも内面はぺらっぺらで「とりあえずがんばっとけ」ってかんじでやってる。
更に言うと「がんばっときゃ文句ないでしょ」みたいな。
ポリシーとか全然ない。芯もない。
何を目指すのかあいまいなままで
6月現在いただいている内定は小売店1社のみ。たぶんブラック。
なんでこうなっちゃったのかなーと考えてみた。
(1)はそのまんま。
公文に通って上の学年の問題を解いてたぶん、
小学校では全然苦労しなかった。
バカみたいに懐っこかったから先生にも好かれてたし、実技も得意だった。
なんとなーくで優等生でいられて、非常に生きやすかった。
「汗水たらして必死でがんばる」みたいなのはあまりなかった。
(2)に特殊な環境って書いたけど、まぁいわゆる宗教系の学校だった。
宗教系って言ってもいろいろなとこがあると思う。
うちの学校の場合、きちんとした信仰心を持っている子がほとんどだった。
宗教に関して半信半疑だった自分は、染まるでもなく、拒むでもなく、
とりあえず信じてるふりをすることにした。
ここで「え? この教義おかしくね?」とか言ったらマジKY!
そんなわけで清く正しいふりをして6年間すごした。
周りの清く正しい信仰を持つ人々には明確に目指すものがあって、
自分にはそれがなかった。必死で持ってるふりをした。
ここで育ててしまったのが「とりあえずがんばっとけ」とか
「がんばっときゃ(信じてないってバレないし)文句ないでしょ」みたいな
人を舐めた根性だったのかなあ、と思う。
自分のとなりにいる優しい女の子や、まっすぐな男の子を戸惑わせたくなかった。
彼らが一番大事にしているものを否定するようなことが言えなかった。
今だったら言えるかな。いやまだちょっと怖いかも。
生い立ちのせいにしてるようでちょっと微妙なんだけど、
地に足が着いてない状態を打開したいっていう思いはある。
これからどう生きるか!
いっそ信じちまえばいいのか!
いやでもやっぱりそれはむりだー
とか悶々としながら進路を考えてる。
今ひとつ思うのは、自分が育ってきた学校に戻って、昔の自分と同じように信じられなくて苦しんでいる子供の背中を押してあげたいなーとかそんなこと。
別にハルヒ厨をからかうのが目的じゃないんだがな……そもそもは単純に「ハルヒってスイーツじゃね」って言いたかっただけで。ハルヒ厨をからかうのは敢えて言うなら「副産物」だ。
それはさておき
まず、批判される「スイーツ」って
こんな感じだろ。
この、
はどっから来たんだ?
「つまらないけど面白いと信じ込む」って本当にそうなのか?こんなの初耳なのだが。
単純にハルヒと同じように「つまらない、じゃあ色々やってみよ」そうしたら、「うわ、案外楽しいね!」なのかもしれないだろ?
それは俗に言うスイーツたちの行動からは押して計れない。彼女達がどう感じているのかはわからない。本当に単純に色々やってみたら「楽しい」と思ったのかもしれないし、勿論君の言う通り「本当はつまらないけど面白いと信じ込ん」でいるのかもわからない。
それは行動からは分からない、色々な内面が考えられるのに、その中からわざわざそれを選んでいるってのは、そもそも今ハルヒと分けるため、ハルヒの方がまだマシなんだよって事をいいたいがために都合のいい選択をしただけなんじゃないのか?と思えるのだが。
大体、「面白いと信じ込む」ことが、「バカ」なのか?
面白いつまらないというのは絶対的なものじゃなく、つまらないことでも皆でやれば面白かったり、とても流動的で相対的な物だろう。つまらないけど、「敢えて」楽しむよう頑張っている可能性もあるわけだ。幸せだから笑うのではなく笑うから幸せなのだというのはよく言われる格言だが、それと同じくあんまり面白くなくても皆で面白そうに笑っていれば本当に面白くなる事だってあるだろう。例えばそういった努力はバカなのか。すぐにやってみて「つまらない、次」と周りを振り回すだけ振り回していつも不機嫌面のハルヒとどちらがいいかといえば、簡単には答えられないだろう。それは各々の「頑張りどころ」の問題でもある。
ハルヒはまだ中ニ病を患っているため、「自分をドドーンといきなり面白く変える何かが現れる」となかば宗教じみた信仰心があるゆえに、そうやって次へ次へといくわけだが、スイーツたちはそのような中ニ病は既に発症していないゆえに、もはや「そんな自分を突然変えてくれるような何かが現れる」なんて子供じみたことは考えていない。追いかけても無駄だ、とある種悟っている。だからこそ「この辺で楽しんでおこう」という戦略的思考停止をしている、そういうスイーツも(こうやって書くと仰々しいが、誰だってある程度はしていること)多数いるだろうと思われる。ハルヒは単に、子供だから次へ次へと「自分の世界をぱぱーっと変えてくれる何か」探しをやっていられるだけだ。超能力者だの未来人だのなんだの。大人はそんなものないと気付いている。信じたくても、それ以前に生活がある。
ハルヒはただ待っているだけだもんな。自分の世界を面白くしてくれるものを。大人のように無駄だと悟って諦めるのも嫌だし、かといってこの世界で面白い事を作るわけでもない。ただ待っているだけだ。その「待つ」行動が少しアクティブなだけ。基本的に他力本願。超能力者や未来人や宇宙人に面白くしてもらおうとしているだけ。自分で面白くしようとはしない。それがハルヒ。頑張りどころが間違ってるんだよな。
質問している人は最低でも二人はいるよ(俺と俺以外)。俺は「疑問」(http://anond.hatelabo.jp/20071022234530)ってエントリを挙げたの。
増田が求めてるのは、教義じゃないんだね。信仰心に根ざしたコミュニティを目指してるのか。
私が疑問に思っていることは、「信仰とは何を指しているのか?」、「宗教に何を求めているのか?」、「今何を困っているのか?」。
私は、信仰心が全く無いので、信仰がなんなのか、何でそれを必要としているのかがさっぱり分かりません。
例えば、「人生の目的を定め、悩みをいかに乗り越えていくか、自分のため、人のためにいかに善く生きていくか、など。生きる哲学のようなもの」と、宗教/信仰心がどう関係するのかがさっぱり分からない。
増田にとってどうなのか、創価学会の場合はどうなのかって、具体的な事例を教えてくれるととても興味深く拝聴できるんだ。相談に乗るんじゃなくて、教えて、教えてなんだけど。
増田はどんな人なの?
1.学歴は?専攻は?面白かった?
2.仕事は?何屋さん?面白い?
3.趣味は?自分の時間は何して過ごしてるの?
4.本は読む?映画とか?どんなの?
5.交際範囲は?恋人は?友達は?何系とかある?
6.増田にとっての世界はどう見えてるの?自然科学的なもの?超自然的な真理の法則があると思う?そういうのはどうでもよくて、地表百メートルの人間の生活圏内の人間関係が全てとか?どこに重きを置いているのかある?
7.これからなにをどうしたいの?
ちなみに、私の場合は、
2.IT系、インフラ屋、面白いこともあるけど、仕事に面白さは求めない。
3.とくになにも・・・休みの日はできる限り長く寝られることを追求。
4.本好きだけど、SF/ミステリ/評論とかのジャンルのマニアじゃない。ラノベは読まない。今は宮部みゆきの『模倣犯』読み中。最近は『悪童日記』三部作が面白かった。映画はほのぼのするのが好き。『バッファロー’66』とか『バグダッドカフェ』とかがすごく好き。
5.非コミュ。恋人はいるけど、まだ2ヶ月くらい。友達は極めて少ない。というか、いないと言っても過言ではない。何系とかはない。
6.世界は自然科学的な法則に従っていて、真偽は数式/論理学のレベルで決まるものだけが実体。来世とか幽霊とか生まれ変わりとかは無いと思う。物理学/化学的な実証事実は概ね正しい。人間関係では、お互いに不快にならないように気を遣ったり努力するまでは当然で、そこに真偽はない。
7.どうしよう・・・
私が自然科学的な知見をほぼ事実と信じているのは、数式レベルの自然科学の知見は、その数式運用や観察において緻密に網の目が張り巡らされていることを学んで、30年ちょっと生きてきた日常的な経験から、反証を経験したことがなくて、それ以外はどうも嘘くさいと思うから。だから、そう思わない人もいると思う。ので、個人的な信念に属することだと思う(この信念を持っている人は珍しくないと思うけど)。けど、信仰はそういうのとも違うんでしょ?
信仰って何なのかなぁ。よりよく生きるために役立つのかなぁ?役立つ気がするんだけど、なんなのか分からない。神はいないと念じて必死に祈る信仰もあると思うんだけど、増田の場合はどうなの?日蓮宗には、神も祈りもないよね?
増田は分かりやすく書いてくれるので、良かったら教えて欲しい。増田にとっては、他の信仰心を持っている人の意見が聞けるといいんだと思うけど・・・
僕は創価学会の家に生まれて、大学に入るまでは自分も熱心に信仰していた。今は宗教活動はまったくしていないけれど、当時はそれはもう熱心だった。その熱心さを買われて、大学時代は、優秀な信仰者が集まる人材グループに選ばれることになった。
大学に入学したころは、自分がゲイであることにさんざん苦悩したあげく、ようやくそれを受け入れて前向きに生きていこうと考えるようになっていた時期でもあった。その悩みが晴れた喜びと決意は、信仰によって勝ち取ったものだった。人材グループでも尊敬する幹部にそのことを話したのだが、これがその後10年も尾をひくことになった。その幹部は同性愛を否定したのだった。宗教組織の中心にいたその人に同性愛を否定されて、自分自身をつくりあげてきた礎ががらがらと崩れ去ったのを感じた。自分がゲイであることは変えられないのに、それをあってはならないことのように言われ、海岸の水がひくように一気に宗教組織への信頼が遠のいていった。それから、宗教活動はしていない。
宗教をやめたきっかけは、自分に非のないものだったけれど、やめたことは大きな過ちだったのかもしれない。信仰心を失い、学会の書籍も学会関係の電話番号も、二度と見たくないとうちすててしまった。そこには人生を強く朗らかに生きていくための智慧もつまっていた。本を焼く国はいつか人も焼く、という焚書の教訓があるけれど、本を捨てる者はいつか精神も失ってしまうということだろうか。心のよりどころも、希望もない人は、ひとりで立つこともできない。それ以来、うつになったり、引きこもったり、対人恐怖症になったり、借金をこしらえたり、活力と本当の笑顔が極端に減った。人生の谷間を泳いだ20代。ずっとこのままでいるつもりなんかない。
宗教活動をしていないことを、親も親戚もなんとかしたいと思っているらしい。大学時代の友人も、かつて一緒に活動したのに今では落ちぶれてと、哀れんでくる。それが疎ましい。信仰心は大事だと思うが、宗教はやっぱり嫌だ。僕は間違っているのだろうか。
あれからもう何回振り返っただろう。僕の心にできあがったこの物語は、あれから10年経とうというのに、どうして強く頑なに自分を縛りつけるのだろう。勝手に作り上げた物語は、隙だらけで偏見に満ちていて、もっとましな別の解釈がいくらでもできるというのに。それでも10年前の感情を解き放とうとしなかった僕は、この物語をこういう形の呪文にしてしまった。自分ひとりの身に起こったことなのに、自分ひとりでは解き放てない。誰かにきいてほしい。ほんとは一部始終を隣できいてもらって、あのときの感情をわかってほしい。 ただ一言、大変だったねと理解してほしい。最後はひとりで乗り越えていくのだけれど、誰かに助けてもらえたら、ずっと楽になれる気がする。
そして、誰かの助けに答えられる人間になりたい。