はてなキーワード: しつけとは
自分が謙虚な事を心がけるのは構わないが、
他人に謙虚な事を求めるのはなんか違う
ていうかその時点で、そもそもそいつ自身が傲慢になってるだろ
傲慢な奴が他人に謙虚を求めるとはこれいかに
まず自分が謙虚になってから言えと
んでも「謙虚さが大事!」とかいってるやつは9割がこれなんだよな、
自分が謙虚になることが大事、なんじゃなくて、自分に対して他人が謙虚になることが大事なだけなんだ。
要するに「俺に偉そうな事いうな、でも俺は偉そうな事言うよ」ってことなんだ。
そんなかんじで他人に謙虚さを求める(「なんだあのスポーツ選手の態度は!!もっと謙虚になるべきだ!!」とか)奴はそういうジャイアニズムを主張してるのとほぼ同義なんだけど、「謙虚さが大事」なんつーと一見いいことのように思えて反論のしようがないからなんとなく誰からも指摘されることなく、「謙虚にせよ!!」と他人に押し付けるジャイアニズムたちがはびこってんだよな
日本のいいところは謙虚なところっていうけどそれはあくまで各々がそうこころがけるのが美しいんであってそれを勘違いして他者におしつけまくるのは全然美しくないっすから。
日本で社会運動が今ひとつ盛り上がらない理由について考えてみる。日本の風潮のせい、ネットで話題になる偏向報道、またひどく深刻な社会問題がないということ、学生運動の失敗などなど理由はいくらでもあるだろう。それらが複合的に絡み合って今の現状がある。
ところで日本人の風潮とは一体何だろう。色々な問題が出たときにとやかく日本人の風潮というものが問題視されるが、その実体は一体何なんだろう。最近読んだものには”表面的な付き合いしかしない若者”というものがあった。自己のメリットの範囲内でしか人間と人間の付き合いをしないという若者のコミュニケーションがそこでは問題視されていた。表面的な付き合いというのは日本の一種独特のコミュニケーションスタイルだと思う(それをコミュニケーションと認めるならば)。集団社会という点、自分の趣向をないがしろにできるという点、雰囲気を過剰に読むという点(KYというふざけた言葉があるくらいに)などが表面的な付き合いというものを可能にしている要因である。特に日本には以心伝心という言葉が古くからあるように言わずとも分かれという意識が非常に強い。これは日本人全体のコンセンサスにもなり得る程だ。
あるいは古い時代なら何と言わないままでも分かり合えてたのかもしれない。しかし、現代の人間にはそんなことは伝わらない。むしろ言っても何も伝わらない時代なのだ。人間という生き物は確かなプロセスと結果を学習しなければ、何も得る事は出来ないのは自明の理である。子供の精神や脳のシステムが発達していく段階に、親はしつけの名の下に何がどうしていけないかを教えなければならない。現実問題として親はしつけを放棄するようになっているし、大人が子供を恐れているという問題もある。挙げ句の果てにはアダルトチルドレン問題なんていうものさえあるのだ。少し脱線したが、私が言いたいのは想像力のない人間が増えているということである。人間を包丁で刺したら死ぬということさえ理解していないように見える人間だっている。現代は人に対する想像力が決定的に欠けている人間が多くなっている。想像力のない人間に、”ダメ、絶対”という言葉だけで一体何が伝わるというのだろうか。しかし表面性を重んじる社会はこれを賞賛するのだ。全くもって素晴らしい国だ。説明する労力をみんながみんな省こうとするのだから。
こうした表面性にも増して社会運動が盛り上がらない重要な要因はもう一つある。それは言うまでもなく日本的集団社会のシステムである。グループや組織の中で一人違った発言や主張をしただけですぐに組織からしめだされる。マイノリティを排除しようとする素晴らしい民主主義システムである。
こうした事柄などから社会システムなんていうものはいくら頑張っても個人の力では何一つ変えられないと日本人が思うのは至極当然のことだ。そういう意識は勿論私にもあるし、日本全体のコンセンサスのようになっているかもしれない。社会運動、学生運動などは時代が違うのだ。社会のシステムに歯向かうなんて馬鹿のすることだ、と多くの人は考えている。それでも立派な革命家、思想家なら徹底抗戦するだろう。詩人や小説家も同じかもしれない。とにかく少しでもいいから社会をいい方向にもっていきたい。それが理想であろうと幻想であろうと妄想の戯れ言であろうと彼らは頑張っている。それが例え最悪な結果を招いても方向性が著しく間違っていたとしても彼らを私たちが嘲笑うことなど出来ないだろう。私たちは何にもしていないのだから。
民衆の結束力が弱くなった時代だと言う。人々は互いに無関心になって、国民意識とか郷土意識とかがなくなっているともいう。しかし、世界の裏側で子供が餓死しようと、チベットで暴動が起きようと、そうした事が私たちの実生活に影響を及ぼさないのも事実だ。所詮対岸の火事なのだ。そんなことは私や君の生活には関係ないから、例えそれが心を痛ませるものだとしても、私達は自分達がどうやって明日の生計を立てていくかを考えた方が良いのだ。ではもし自分の住んでいる街に原子力発電所ができたら、ゴミの埋め立て場ができたらどうするだろうか。どうもしない。その街を出て行けばいいだろうと人は言うだろうし、反対運動に身を費やすよりは補助金でももらってさっさと新天地を求めた方が懸命だ。現代とはそんなもんなのである。
では、例えばの話をしよう。
ある漁村にダムの建設計画が浮上した。漁村が位置するのは珍しい泥海がある場所で、そこで漁師達は伝統的な漁を営み生活していた。またそこにはムツゴロウなどの珍しい生態系も住んでいた。その地域は毎年ひどい水害に見舞われていた為、ダムをつくって水の流れを止めてしまう事が切実に必要だった。しかし、ダムによって水がせき止められてしまえば、そこにいる生態系は全滅し、漁師達は職を失う。
このニュースは直ちに全国に流れた。人々はそれを見て何て可哀想な出来事なんだと感じた。そして、様々な抗議運動が展開された。珍しい生態系を守らなければならないというのが特に人々の心を動かしたようだった。漁師の伝統的な漁と、珍しい生態系は絶対に守らなければならない、と彼らは声高に叫んだ。だが、ダムを建設しなかったら水害はどうなるということについて彼らは何も考えていないようだった。水害は毎年死者を出すほどのひどいものであったので、地域の住民はダムの設立を切望した。双方様々な運動をした。どちらにとってもダムは文字通り死活問題だった。
結局漁師の抗議運動もムツゴロウなどの保全をうたう環境団体の運動も結局は何の効果ももたらさなかった。何故ならダムを作る事の優位性は明確だったし、地域の住民の数に比べて漁師の数は圧倒的に少なかった。そして誰もが仕方の無いことだったんだな、とニュースを見てひとしきり胸を傷ませた後、各々の生活に戻った。
一つの季節が終わり、春が来るとほとんどの漁師は村を去ったが、ムツゴロウは元気に繁殖活動を続けていた。
数年後、漁師やムツゴロウ達が消えた場所には「ここは昔海でした。」とだけ書かれた看板が立てられた。世間の人々は漁師やムツゴロウのことはもうすっかり忘れていた。何故人はすぐに忘れてしまうのだろうか。それは全ての事件に胸を痛ませて、憤慨し、悲しいことを忘れないように、理不尽なことを忘れないようにしていたら、人は疲れきってすぐに気が狂ってしまうに違いないからだ。誰もが何もかもを忘れていく。自分に直接関係のないことは所詮自分に関係のないことなのだ。
昔、漁村があった街には今では味気ないダムと味気のない看板が立っている。その街の人々はとても幸せそうに暮らしている。
私はこの文章を書きながらチベットの人々のことを考えた。難民のことを考えた。食べ物が無くなり、今にも餓死しようとする子供達のことを考えた。平和が訪れればいいな、と本気で思った。
それでも寝て起きたら、私も全てをすっかり忘れて私の日常に埋没するかもしれない。それが良い事なのか悪い事なのか私には分からない。
ただ、それが出来てしまう今の自分を好きになれないということだけは分かっている。
ともかく海外に派遣された自衛隊員が街中で出会った少女を乱暴したとする(仮定の話)。
少女と自衛隊員が出会った時間帯や少女が自ら自衛隊員の車に乗ったかどうか、ということに関わりなく、これは自衛隊の大きな不祥事であることははっきり理解できると思う。
いわんや、日本の政府関係者や主要マスコミが「遅い時間に出歩いて、見ず知らずの外国人についていく無防備さは無念だ」なんて発言をすれば当事国のみならず国際社会から袋叩きに遭うことは確実だろう。
日本としてはどこまでも誠実に被害者への謝罪と関係者の処罰を行うことが求められるだろうし、それは日本国民にも当然のことと受け止められるだろう。
では日本自身ではなく、現地の親日的メディアが「少女にも落ち度があった」などと報道すれば、自衛隊や日本政府は内心「ナイスフォロー!」などと思うだろうか?
おそらく違うのではないか。
現地住民に「日本の自衛隊には気をつけろ」という意識を植え付けるのは明らかに日本にとって不利益になる。それは、平たく言えば「日本を敵視せよ」ということだから。
日本としては効率的に活動するためには現地住民の同意や協力姿勢も調達するする必要があるはずだ。サマワでも「自衛隊と現地住民の心からの交流」のようなイベントが何度も演出されたはずだ。
現地の子どもたちに「日本人にはついて行っちゃダメだよ」としつけるのは、日本側のそうした努力を無にするものである。
このように思考実験してみると、花岡信昭の一連の言論はいったい何なのだ?という疑問が出て来る。もはや親米や従米ですらない。
おそらくは、米国などよりもむしろ自分が可愛いのだ。自分はまったく基地問題の外部にいながら、今回の事件によって基地問題の直面している人々が声をあげることを疎ましく思っている。それは、人々の行動によって、基地外の自分まで何らかの決断を下さなければならなくなることを恐れているからだ。花岡はそれを嫌うから、こういうのだ。「沖縄の奴らはただ屈従していろ」と。
この少女のことをまず考えると、軽率にも米兵のバイクに乗ってついていってしまったことが、日米関係を揺るがせ、「反米・反基地」勢力を勢いづかせてしまったことを、どこまで理解できるか不明だとしても、ともあれ、このことを人生の大きな教訓として生きてほしい。
そのことを願っておく。そうでないと、いつまでも「米兵の蛮行の被害少女」として扱われることになってしまう。少女を政治的に利用しようとする勢力がこんなにもいたことに、本人は当惑し、沖縄の現実を痛いほど身にしみてわかったはずだ。
「米兵に乱暴されるな、日米関係に傷がついたらどうするんだ」、「被害に遭ったら泣き寝入りするのが一番だ」。花岡の言っていることは、このように読める。
まさに基地外勢力。
しつけられなければおかしいとすら気づかないんだから恥ずかしいわけないでしょ。
箸の持ち方がダメなものです。
正しい持ち方で食べることもできるよう厳しくしつけられたので、気が張る食事では正しい持ち方で食べます。でも、正しい持ち方だとうまくつかめず、食べた気がしないので、普段の食事では持ち方が変です。コンプレックスはありますし、あまり胸をはっていばれることでもありませんが。
でも、本当は「なんで箸だけ厳密に正しく持たないといけないのか、キレイにスムーズに食べられたらどんなもち方でもいいのでは」という気持ちもどっかにありますね。指の動かしやすい部位、力の入りやすい部位も人それぞれ違うでしょうし、正しくない箸の持ち方のほうが合理的に物がつかめて快適に食べられる人もいると思うのです。キーボードをホームポジションから打たないとか言うのは正しい打ち方ではないですが、それほどとやかくは言われないと思います。箸もそれくらいカジュアルな感じになってくれたらいいのになーとは思います。
作法、しつけ、礼儀、マナー、そういった言葉で語られるものの正体は、「一緒にいる人に不快な思いをさせない工夫(場合によっては、心地よさを感じさせる工夫も含まれる)」だと思う。そう考えると、箸の持ち方や鉛筆の持ち方も、その場にいる人に不快に思われないか?が第一の評価基準で、さらには、その場にいる人に心地よさを感じさせることが出来るか?が第二の評価基準になる。時、場所、人によって、良しとされる作法、しつけ、礼儀、マナーは変わるよ。
だから、僕の場合、仮に、自分の箸や鉛筆の持ち方がおかしいことに気づいていたとしても、相手次第で、自分が恥ずかしいと思うかどうかが変わる。箸の持ち方や鉛筆の持ち方なんて気にしない人の前では、恥ずかしくない。気にする人の前では恥ずかしい。
以下は、僕個人としての、マナーの基準の一例。
一緒に食事をする相手が、刺し箸したら気になるけど、茶碗に箸をのせても違和感は感じない。口を開いて食べたり、たべものが口に入っているのに、喋るのはNGで、注意しちゃうと思う。鉛筆の持ち方は、相手がどんな持ち方をしていても気にしない。鉛筆は文字を書くのが目的であって、その人なりに、書きやすいと思ってる持ち方をすればいいと思うから。(でも、書き方が上達・洗練されてくると、ある一定の持ち方になっていくんだとも思う。これはどんなスポーツでも、芸事でも一緒でしょ。だからといって、初心者のやり方をダメだとは言わない。通過地点だと思ってる。一生初心者の地点にとどまる人がいても、その人に文句はないよ。)プロミスのCMで、しょこたんがやってるマナー集は、若干考えすぎだと思えるものもある。「割り箸を割るときは横にして割る」ってのは、脇に人がいなければ縦にして割ってもいいだろうと思ったり。
不便じゃない? とは思うけれど、しつけが悪いとは思わないな……。
箸使わない食事のスタイルの人もいるし、そのぐらいどうでもいい。
食いにくそうにしてたら「もち方変えなよ」ぐらいは言うけれど。
しつけの悪さは、食う前の「いただきます」とそのあとの「ごちそうさま」に出るもんだと思う。
いえない奴はマジ論外。
http://anond.hatelabo.jp/20080224002737
選択肢として自らを滅することを選んだAさんは、
本人が打ち明ける以前からなんとなく察しは付いていた。
その原因は……本人申告談だが、父親にあったという
あの子の「私の苦しみを分かって」というとりとめのなかった話を
僕なりにまとめてみると、
ということになる。
なんだか児童心理だか小児精神病だかしつけのABCという本だかに出てきそうなエピソードばかりだ。
あまりにもありすぎな話なんだが、考えてみると、人生、二十年も三十年も生きていると、
この手の話の一つや二つは見聞きしたことがあるはず。
両親への恨みは深かった。
自分がこのようになったのは彼と彼女のせいだというのだ。
彼女の死の一因が彼らにあったのは否定できないが、それだけではないはず。
でも、そう思わないとやっていけなかったのだろう
高校時代の知人からは「性的暴力を受けていないならまだマシじゃないの」と慰められたらしいが、
そうではない。自分は深く傷ついてきた。あんなにイイ娘でいたのに……と繰り返した。
宴会の席上でもそうしたことを平気で吐く。その聞き役はいつも僕だった。
僕との肉体関係を何度も求めてきた。
でも、子どもは欲しくない。子どもは見たくない。声も聞きたくない。
子どもなんか分からない。分かりたくもない。
子どもを手にかける親の気持ちが分かる。
その言葉に呆然としている僕の顔を見ると、
「でも、●▲さんの子どもなら産めるよ」と呟いた。
そうやって親の顔色を盗むことばかり考えてきたのだろう。
彼女は大人びた発言や態度をみせる一方で、
その発想や考え方は幼稚園生のままで止まっていた。
それを要約するなら、ただ一つ
「私だけをただ見つめて」ということだった。
他の方法があるから言い訳って、まったく理屈になってないんだけど。
どんな方法でやるかは人それぞれだろう。あなたが望む方法ではないからという理由で否定するのはおかしい。
議論の発端になった花岡記事の該当部分。
「知らない人についていってはダメ」。筆者などの世代は子どものころ、親から口うるさく言われたものだ。
米軍基地が集結する沖縄である。夜の繁華街で米兵から声をかけられ、バイクに乗ってしまう無防備さ。この基本的な「しつけ」が徹底していなかったことは無念、という以外にない。
後半ではレイプ一般についても述べてるだろうが。
余計な特殊例書かなければよかったね。婦女暴行に関しては強引にらちられるようなやつから、男がついその気になる奴までいろいろあるんだよ。だから、「らちられたら意味ない」とか無意味ね。それに米軍云々じゃなくても拉致るかもしれないんだから。
え?私は女性と極力二人っきりにならないようにいつも注意をしていますが何か。きちんとしつけられたもので(w
あまり激昂しないほうがいいよ。昂ぶって、つい女性に暴行を働きかねないから。
政治系ブログに興味ない身としては、はてなで産経憎しでぶったたいてるブログなんてさほど見かけないけど。
自分が見ているブログが偏ってるだけじゃないの?
最初に自分が偏っていると言った返す刀でお前が偏ってるだけじゃないかと言われても(w
ハテダのトップページにランクインするエントリーはちょっと前まで産経ネタで燃えてたんだよ。
あと、増田の言う
定義通りの言動してるんだからセカンドレイパーと言われるのは当たり前じゃん。
というのは、とても興味深いこの件のキーで、これを錦の御旗にして、しつけに関してはあらゆる発言がセカンドレイパーの烙印を押されかねない状況になっている。
思うのだが、しつけについてどのような発言すらセカンドレイプと言うのなら、それを主張する人たちは、いっそ婦女暴行一切を報道禁止にせよと言ったほうが早くないかね。
未来の犠牲者を少しでも減らせるかもしれんから。ただ、これが感情論とか見栄っ張りに堕しているのは増田の言うとおりだな。
もう一方は、「被害者を悪く言うのはよくない=『知らない人についていっていけないということを教えなくてよい』というアナーキーな思想の持ち主」と思い込んでる。
実際にそう思っている奴はいないと思う。だが、そう書いた奴は俺だ。これには少し説明がいる。
「どんな理由でも「しつけをしよう」的な書き込みは被害者を傷つけるから書いてはいけない」と主張している奴がいる。そいつらにはどんな説明も無駄。どれだけ丁寧に説明しても、「お前、被害者に石を投げるなよ」と罵声を浴びせてくる。そんな奴らに、だったらお前らは「知らない人についていっていけないということを教てはいけない」とでも言うのか、と書いたのが俺。当然、そう思っている奴らがいるとは思っていない。だけど、お前らの言っていることはこうなるんだよと。これに対しては一つの例外を除いて、全員がスルーだ(何人いるのかしらんけど)。
そう言うわけで、増田がくだらないと切って捨てる二つのうち一つは、いないと思っていいよ。
(ちなみにその例外はばかばかしいので考える必要すら覚えない)
男の方もしつけないとなw 目の前に無防備な人間がいたとしても、欲情して襲うなんて理性がないにも程があるw
それが出来ないなら一人で外を歩くな。自分を止めてくれる友人と一緒に歩け。
愛知県で「闇の職業安定所」で出会った3人が女性会社員を拉致殺害した事件も被害者バッシングにはならなかった。
「年端もいかぬ子供ならともかく、成人女性が夜中に一人歩きするという無防備さ。この基本的なしつけが徹底していなかったことは無念、という以外にない」(産経新聞)なんて記事を書いてたら、どういう反応が起こっただろうね。
そもそもこの事件、一時騒がれた割りに風化も早いな。「死刑嘆願が○万人分集まった」ってニュースも見たが、嘆願した本人も忘れちゃってるかもな。
で、その結果事件に巻き込まれたら、事件を起こされてもしかたがないって言いたいのかい?
なんかもう、少女に「一人で危ないところを歩いちゃだめだよ」と教えられると困る奴らがたくさんいるんじゃないかと思ってきたよ。そいつらがよってたかって被害者を出汁にしてしつけを妨害しようとしているなじゃないか。
前を向け前を。起きてしまった強姦事件について、少女には同情する。が、これから強姦事件に巻き込まれるリスクを下げるように、むやみに男を刺激しないように、一人でぶらぶらするなとしつけろ、ってことだよ。
誰かが最近掘り出していたが、犯罪発生率は失業率と強い相関((因果かどうかはわからない))がある。なので戦後の犯罪率のゆるい低下は経済の上昇によるものだと見たほうが妥当だろうと。
犯罪率の変化の原因を経済とみるかやさしい教育とみるか、人によってさまざまだろうけど、おれ自身は自由で優しい教育((最初はそちらを目指していた))の行きつく先としての放任、無関心、しつけ拒否が犯罪率低下を達成したとは信じていない。
この話の結論は「だったらしつけって、やっぱり関係ないんじゃない?」と言うことになりかねないんだが、俺は相じゃないと思う。人としてどうあるべきかっていう教育は必要だと思っている。でもそれを言うと「道徳・修身が嫌いなサヨクに襲われるよ」ってのは、まぁ、皮肉というか揶揄。
http://anond.hatelabo.jp/20080216165504
http://www.bunkei.co.jp/sidouan/kaite_pt.xhtml
ま、せめぎあいって感じかな。
そんなこと言うと落ち着きを取り戻したサヨクに袋叩きに会うから。
道徳とか就寝とかしつけは戦後30年くらいで徹底的に教育から排除され、社会的にも子供を厳しくする親は犯罪者みたいなイメージの定着が完成した。
今はそうやって甘やかされて育った奴の子供とか孫が犯罪を犯している時代。でも躾とか道徳を厳しく教えようと社会に訴えかけるとサヨクに叩かれるから。そんな意見を言う奴らより学校に怒鳴り込む馬鹿親のほうが地位が高い21世紀に乾杯しようぜ。
それはともかく、馬鹿が犯罪を起こすと最終的には刑に服すというペナルティがあって、それが犯罪を未然に防ぐ精神的防波堤になっている(と期待される)。