はてなキーワード: 自己中心的とは
今頃なんだが、この増田は完璧主義で、世の中を綺麗なものと考えすぎてると思った。大丈夫、他人はもっと汚くて自己中心的だ。あんたは綺麗過ぎる>http://anond.hatelabo.jp/20070430010138。
http://www.atmarkit.co.jp/fembedded/column/yoshida/yoshida02a.html
「薬といってぱっと頭に浮かぶものは何ですか。商品名でいってください」
私はとっさに「タイレノール」と答えた。
「では、タイレノールはどんなときに飲みますか」
「頭が痛いときに飲みます」
「そう、いままでわれわれは“頭が痛いからタイレノールをください”と指名買いができるお客さまを相手にビジネスをしていたんです。いわれたスペックを満たせばよく、そこでのヒーローはタイレノールを開発するエンジニアやそれらを高い品質でかつ低コストで作る工場の工場長でした」
「では、具合が悪くなったけれども原因が分からない。そういうときはどうしますか」
「病院へ行きます」
「病院は何をしてくれますか」
「レントゲン撮影をしたり、採血をしたりして、具合が悪い原因を調べ、病名を明らかにして、薬を出してくれます」
「それは医療というサービスが提供されたわけですね。その中身をこちらから指名したわけじゃない。求められるものがモノからサービスに変わったんです」
「求められるものがユーザー・エクスペリエンスに変わった」というのは、もはや手垢のついた言葉だ。
しかし、今現在でも、それをどれくらいの人間が実感しているかという話になると、とたんに疑問符がつくような気がする。
私も、初めて聞いたときには正直言って、ピンとこなかった。なんというか、それはそうかも知れないけれど、それほど重要なキーワードなのだろうか、毒にも薬にもならないような言葉ではないかと聞き流していた。要するに、理屈は分かるけれど、実感がないので、重要性が良くわからなかったのだ。
そして、この言葉の重要性に気づいたのは、仕事で悪戦苦闘しているときだった。私は、顧客の職場に常駐している、その辺によくいる一山いくらのIT業界人で、指示されればやるけれど、それ以上のことはできない(やらないのではなく)という典型的な人間の一人だった。そして、そういう若者が多くなったと嘆かれたりした世代の一人だった。
しかしながら、そういう仕事のやり方をしていると、必ず壁にぶつかる。私も例に漏れずに壁にぶつかった。上司に怒られ続け、顧客に怒られ続け、自分はなんて無能なのだろうと呪った。学生時代、周りの連中より真面目だと自認していたが、ここでは、そんなものは意味がなかった。求められるのは結果だけだ。どうすれば自分の無能をどうにかできるのかとライフハック的なものや自己啓発的なもの本にも手を出して片っ端から試してみた。が、望んだような結果は出なかった。(もちろん、このとき学んだノウハウが今、別の面で役に立っている部分ある。確かに無駄な経験はないのかもしれない。)
閑話休題。そんなわけで、私の悩みは続いていたのだが、ある日、ふと、ようやくなぞの一部が解けたような気がした。
要するに、私はIT業界の本質を誤解していたのである。考えてみれば、当たり前なのだが、IT業界は、昔から(そうずっと昔から)「サービス業」に分類される業種だったのである。決して「製造業」ではないのだ。
何が言いたいのかというと、サービス業の仕事を請け負っている私に求められていたのは、「ユーザー・エクスペリエンス」=「顧客の体験性」を想像し、それを考慮に入れた行動だった。例えば、報告すべきことはすべきだが、顧客にとって意味の分からない余計な報告は、するべきではない。余計な報告で顧客を混乱させるべきではないのである(私はそれまで全ての状況を報告すべきだと思っていた)。相手の望んでいることを考え、相手が「万能な人間でない」ことを忘れずに適切な情報量を適切なタイミングで適切に提供するように努力する。
思うに、その辺を早めに知る機会を作るのは重要なことかも知れない。
たとえば、一部のマスコミでよく取り上げる、勘違いをしている高齢独身女性の問題。
彼女たちの不幸は、「自分が心地よい体験を相手から提供される」ことには関心はあるが、「自ら心地よい体験を相手に提供する」ことには関心がないことだ。
非モテ問題(あるいは非コミュ問題)も同様だ。つまり問題の本質は上記の彼女たちと一緒であり、「自分が心地よい体験を相手から提供される」ことには関心はあるが、「自ら心地よい体験を相手に提供する」ことには関心がないことなのだと思う。
もちろん、才能のやる人間は、自己中心的に好き勝手に生きても、問題ないだろう。しかし、そうでない大多数の人間が、豊かな社会で自己中心的に青春時代を送った場合、厳しい社会に出てそのギャップに苦しむのである。
「相手の体験性を想像し、それを考慮に入れた行動」というのは、「慣れ」と「技術」で、ある程度なんとかなるものだと思う。もちろん、ストレスはたまるし、自分の本音を吐き出す場所というのは必要だが、凡人の場合、そういうノウハウをまず身につけないとまず「お話にならない」というのが、厳しい社会の現実なのだと思う。
よく考えると、一時期、日本のゲーム業界の勢いがなくなったのも、「プレイヤーの体験性を想像せずに、フォーマットにのっとって機械的にゲームを作った結果」なのだと思うし、使えないアプリや、ソリューションはそういうことが原因で使えないのだと思う。(と、つい万能的に使ってしまったが)
しかし、繰り返すが、「求められるものがユーザー・エクスペリエンスに変わった」というのは、もはや手垢のついた言葉だ。
そして、ふと思ったのが、下の記事。
> 豊かな時代の究極の楽しみは「クリエイトすること」、それがWeb2.0
> http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20070419/1176961765
クリエイターは、相手の体験性を想像し、それを考慮に入れて作品を作らなければ、良い作品は作れないと思う。要するに、あらゆる人間がクリエイターになり、良い作品を作ろうと努力していけば、「相手の体験性を想像し、それを考慮に入れた行動」ができる人間も増えるかもしれない。都合のいい考えかも知れないけれど、そんな社会を期待してしまった。
なぜ叩かれるのか。
あんたがひたすらに打算的だからでしょ。
相手は誰でもいいみたいな感じなので(「彼女を作ってもいいか」とか聞いてきたしね)
現状では彼氏を取りますということです。
言い方を変えれば、「相手が本気かどうかわからないのでとりあえず彼氏はキープします」だよね。
相手が、私に彼氏が居るという理由か、誰でも良いとか、様々な理由で
私と真剣に向き合ってくれないのであれば、それはしょうがないんですよ。
あんたが彼氏をキープするように、相手だってあなたが真剣かどうかわからないから向き合う気なんかしないっしょ。
あんたがいくら口先だけで愛をぶつけようと、相手はあんたに彼氏がいる限り、あんたが真剣だなんて思わないよ。
なんで自分だけ石橋を渡ろうとすんのか。相手にはつり橋渡らせてこっち来いかよ。場合によっては谷底に突き落とす癖して。
増田は、ただあんたが二人の人間を好きになったそのことを責めているのではなく、その先にある、キープや二股や不倫や人格軽視や自己中心的振る舞いに嫌悪感があるだけだよ。一人でもやもや悩んでる分には好き勝手にやってください。
関係ないが
もう、その通りなんですよ。
ここらへんがヤリマンの言い回しに似ているな。そして、相手の気持ちを想像するスキルがないところも似ている。
似非原クン、念のため呼び出してみなよ。
A男さんという人がいます。
A男さんは品行方正で勤務態度もよく、誰からも好かれる好人物です。
しかしA男さんには一つだけ一般的ではない特徴がありました。
彼は自分以外の人を殺さないと生きていけないのです。
生きていけないというのは、本能レベルで殺人欲求がある人物です。
さて、A男さんは会社の帰りにちょっと人が殺したくなりました。
もちろん社会的には許される事ではないのでその欲求を抑えようとします。
しかしA男さんはこのまま抑圧すれば自分をも殺してしまうでしょう。
どうしても欲求を抑える事が出来ず、駅からの帰り道に前を歩いていた女性、B子さんを殺してしまいました。
A男さんは殺人欲があるという以外は理知的な人間なので自らの行動をカムフラージュします。
A男さんは自分の欲の為にCさんに迷惑をかけてしまったという自責の念がありながらも欲求を満たせたという満足な気持ちもありました。
しかし法治国家のシステムはさすがに効率よく機能し、A男さんの行動は発覚します。
週刊誌やワイドショーなどでもズバッと非難され、世を騒がす大事件になったのです。
優秀な警察の捜査により過去に同様の犯行を重ねていたことも発覚し、「被告の犯行は自己の欲求を満たすための犯行で、動機は自己中心的
で非道。酌量の余地はない」という様なありきたりな文句を並べ、めでたく死刑となりました。
話は変わって……
ここにA男さんの事件を報道するワイドショーや新聞を見ながら恐い時代になった物だとつぶやくC郎さんという人がいました。
C郎さんも品行方正で勤務態度も良く、誰からも好かれる好人物でした。
A男さんと違いC郎さんには殺人欲求などなく、日々平穏にくらしています。
もちろん財布が許せばの範囲ですが豪勢にステーキでも食べたい気分です。
しかしC郎さんはこのまま我慢すれば空腹感で夜も眠れません。
どうしても欲求を抑えることが出来ず、駅の近くのステーキハウスで特選ロースステーキ270g(\2,980)を平らげました。
C郎さんは自分の欲求の為に三重県松阪市の牛の命を断った、牛さんに迷惑をかけた、などとも思わず満腹感に浸りながら帰りました。
しかし、薄給のC郎さんが次の日から財政難になったのは言うまでもありません。
さて、A男さんは法によって裁かれC郎さんや一般市民は悪いヤツは居なくなったと安心して眠れるようになりました。
もちろん社会道徳的に、とういより法律と言うモノが有る以上、人間同士が形成する社会という集団の一員としてA男さんは裁かれて当然でしょう。
しかし、両者の違いは殺した対象が人間か牛かという事であり「自分が生きるために他の生命を奪った」という点では変わりません。
なぜ人はダメで牛はokなのか?
人間同士が安心して生活出来るためのルールを守らなかったから裁かれた、という理屈はわかります。
でもA男さんにとっては、自身の生存に関わる大問題であるし、そもそも「そのルール」を守る事を契約してこの世に生まれてきた訳ではありません。
A男さんを裁くことこそ裁く側の身勝手な都合ではないでしょうか?
正義ってなんでしょうか。
「多数派の都合」が正義でしょうか?
それを全くの自己批判も無しに振りかざしていいもんなんでしょうか?
A男さんを裁く側は「君には悪いけど我々にとってあなたは脅威だから、我々の都合で死んでもらいますよ」と言うべきじゃないでしょうか?
裁判官はA男さんを「自己中心的だ」と断じました、なるほど彼はは自己中心的ででした、でも裁く側は自己中心的ではないでしょうか?
そう問われた時、我々は有効な反論を持ちうるんでしょうか?
中二っぽいとは思うのですが、最近こんな事が頭から離れません。
#つーかもちろん、僕にはそんな欲求ないですよ
おっしゃるとおりですが、哀れんでくださらなくても結構です。
だんなさんの葛藤や苦しみを解消することに失敗したことは認めます。
結果逃げ出したことも認めます。
繰り返しになりますが、責める気持ちは全くありません。
当然それは責める筋合いがないと理解しているからです。
では何故打ち明けたところを反省するかというと、
それがもっとも自己中心的な行動だったと思うからです。
自分の手に負えないからといって、相手に投げつけてしまったことで、
相手に余計な苦しみを与えてしまったからです。
自分の痛みに精一杯なあまり、言われるほうの気持ちを考える想像力に欠けていたと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20070306122054
自分は犯罪者にならない、自分は被害者にしかならない、自分は精神病患者にはならない…そういう前提でしか話してませんね。
被害者側の立場にしか立てていない。そもそも第三者なのに、第三者的立場でモノを言うことすら出来てきない。
被害者の親族が言っているなら、冷静に客観的にというのは難しいだろうから…と考慮する余地はあるんですけどね。
リョコたん(笑)
自分の「半分の年齢の子供」と本気になって喧嘩し、計画的な殺人を犯す。
・・・人として如何だろう。
こんなのがよく「授業」をしていられたもんだ。
「ただ、テキスト通りに説明してた」。 そんな気がする。
「懲役18年」。短いな。
それでいてまだ、「刑事責任能力」の有無を争うとしているなど、図々しいにも程がある。
こんなのが「いつか出てくる」。
遺族の方の悔しさは「言葉にならないだろう」
ようだい
確かに、本人が被害者に対して殺意を持って犯行に及んだんじゃないと思うけど、たとえ精神的に責任能力を問えなかったとしても、無罪なのかなと。
刑事裁判においては有罪か無罪かを問うのであり、金銭的、もしくはその他の補償であるとかは民事だよ、みたいな違いはあるのかも知れないけど、人一人殺して「無罪」ってそりゃ遺族はやりきれないよなぁと。
犯人から金を取ろうとか、そういう考えとはまた別のところで、たとえ本人が意識してなかろうと殺した物は殺したんだから、反省しろよ的な意識は遺族にはあると思う。
YOSSY
弁護屋の勝ちかな。
つか求刑が無期って何。
ルーファ(電波受信中)
つーか人一人殺して求刑が無期っていうのもどうかと思うが。
まりっぺ@もったり
あたしいっつも思うんですけどね、直ぐに刑事責任能力の有無で精神鑑定、とかやられたら頭に来ますよね。
刑事責任能力があるにしろないにしろ、人殺したのは事実なんですから。責任能力がなかったら人殺しても無罪なのかと。
例えば酒飲んで泥酔してなんかして、責任能力を問われたら、そもそも泥酔するまで酒飲んだのは本人なんだから、その時点でさらに刑を加算すべきなのでは?二十歳すぎてる大人なんだからさ。泥酔するまで飲むなよ、っていう。
ゅき
なんか。。同じことばっか言う様だけどさ、世の中やってらんないなぁ〜って思っちゃうね。。
他の生徒を別の部屋に移すなど明らかに計画的…
めった刺しにしている
これらから考えれば死刑相当な気がするんだが。
繭蚕
そこか?ちがうだろ?
まいっちんぐマイKOH
そもそもなぜ精神異常だと減刑されるのかが理解できない。
学習塾での小6刺殺、元講師に懲役18年…京都地裁http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070306it03.htm?from=rssに対する、一般の現代日本人の反応は、以下の通り(mixi日記より引用)。
[1] まりっぺ@もったり
あたしいっつも思うんですけどね、直ぐに刑事責任能力の有無で精神鑑定、とかやられたら頭に来ますよね。
刑事責任能力があるにしろないにしろ、人殺したのは事実なんですから。責任能力がなかったら人殺しても無罪なのかと。
例えば酒飲んで泥酔してなんかして、責任能力を問われたら、そもそも泥酔するまで酒飲んだのは本人なんだから、その時点でさらに刑を加算すべきなのでは?二十歳すぎてる大人なんだからさ。泥酔するまで飲むなよ、っていう。
[2] ルーファ(電波受信中)
やはりまた精神衰弱で逃げ。
つーか人一人殺して求刑が無期っていうのもどうかと思うが。
その他にもたくさんあるが、どれも似たような話。全員が全員、「精神病だから量刑が軽くなる、あるいは無実になるのはおかしい」との話。いつものことですね。
まず1つ言っておくべきことは、1件の殺人事件では、私利私欲の為の残虐な自己中心的犯行と見なされない限り、懲役18年は普通の量刑であり特別軽くはない。これすら知らずに適当なことをいい連ねられる頭の悪さにまず萌えますが、それはおいておいて。
そもそも懲役・禁固(というか刑罰全体)の意味はなんなのか考えたことがあるのでしょうか。被害者の恨みを晴らす為の報復ですか?それは刑事罰ではなく民事賠償です。刑事罰の意義の1つは、"正常な思考が出来る人への抑止力"。もう1つは、"法を犯した人間の反省と更生の機会"です。つまり、その罰を受け、刑期を過ごすことで、反省と更生を望める人でなければ刑事罰はそもそも意味が無く、ただの人権侵害による報復攻撃に過ぎなくなります。
精神病患者はどうでしょうか。そもそも正常な思考が出来ない状態の人を閉じ込めた所で、その人の状態が改善するはずはありません。単に、周囲の人間を守る為の隔離に過ぎません。精神病患者に必要なのは治療です。当然、自傷他害の恐れがあるうちは、閉鎖病棟に隔離する必要があります。これによって、周囲の人間を守ることは出来ますし(医療従事者は危険に晒されるが、それが仕事)、本人の治療に依る反省と更生が望めます。
よって、正常な思考が出来る人が罪を犯した場合に必要なのは、懲役・禁固による反省と更生であり、精神病患者が罪を犯した場合に必要なのは、治療であるはずです。正常な思考が出来る人を薬漬けで隔離病棟に入れた所で何の意味も無い行為ですし、その逆もまた然りです。もちろん、信頼出来る(公平に機械的に判断出来る)精神科医が精神鑑定をしっかり行い、誤診を起こさないようにする必要はありますが、それは医療過誤関連になる話で、また別な問題です。ここは理想論的ですが、本来の意図はこうであるはずです。死刑や終身刑はまた異質であり、一般刑事罰とは一線を画すモノです(抑止力が主)。だから簡単には確定しないし、議論もなされている。
弱者(被害者)を擁護し、ヒーロー気取りになるのは勝手ですが、"精神病には自分はならない"と考えるのは間違いです。
常に頭の中で声が聞こえる。周囲の全ての人間が自分に対して悪意を持っていて、影で悪口を言っている。自分の悪い噂を広めらており、そのせいで自分は回りと上手くコミュニケーションが出来ないだけでなく、買い物すらまともに出来ない。世界のすべてが、その噂に従って自分を監視・盗聴している…統合失調症患者が抱く思想(真の意味での妄想)としては珍しくありません。こんな状態に陥って、目の前の人間がその首謀者に見えたとして、暴力を振るわないでいられるでしょうか。おそらくこのニュースに対して、攻撃的なコメントをした人間には無理でしょう。そしてそんな状態の自分を懲役刑にしたところで何か意味があるでしょうか。刑務所の中でも周りの人間全てが敵に見えているのです。暴れるか自殺するかしかないでしょう。更生など望めるはずもない。
ちなみに統合失調症は珍しい病気ではありません。うつ病などはもっと身近な病気です。激越型うつ病ならば、他害する可能性もなくはない。人格障害や発達障害に至っては、潜在的な罹患者はどのくらいいるのか想像も付きません。そう、あなたも既に精神科的疾患を持っているかもしれない。
もう少し、頭を使って考えたらどうでしょうか。
明日まで考える時間があるのはよいね。
割り切った関係を持てるなら一番楽だと思っている感じかな?
そうだね。楽だと思う。楽だという言葉がしっくりくる。困る要因についてあれこれ考えたりしなくて済むし。
割り切った関係とか言う、単に都合のいい肉便器が欲しいだけの、人の好意を受けるにはふさわしくない自己中心的快楽的な人間ほど、モテるんだな。
俺はこれを都合がいいオンナが出来るチャンスだと思っている自分勝手な奴だ。
しかし、向こうだって同じかも知れないじゃないか。気持ち良いからやるだけの女だっている。
彼氏がいるはずなんだけどな。なのになぜ積極的に股を開いたのか知りたい。
だから明日会ってお互いの状況、意思や思惑を確認するんだ。
おかげ様で自分の中の優先順位がハッキリした。
さてどうなるか明日のお楽しみ。これからどう話したら上手くいくか考える。
http://anond.hatelabo.jp/20070217223747
これは俺にとってもあながち冗談でもなかった。
セックスが苦手だった。彼女のことは恋愛感情として好きだったが、彼女とするセックスはあまり好きではなかった。
どうにかしてセックスを円滑に進めてデートを終わらせたいとずっと考えていた。
向こうが意思を伝えてこないから『関係を繋ぎとめておくために仕方なくやってあげている』感覚でセックスに付き合っていた。
きっと向こうは、俺が「互いに幸福な行為としてセックスを捉えている」と思っているだろう。
無邪気なほどに、「私はあなたの欲望に付き合ってあげてるのよ」という態度で。
何時からか「こんなに精神的に疲れる行為を俺は仕方なくやってあげているのに、その見返りは無いのだ」
と思ってしまっていた。「こちらからばかりセックスを誘い、気を使ってあげている」と。
だから彼女がふと料理をご馳走してくれたり、掃除してくれたりしても、素直に感謝出来なくなっていた。
「掃除なんてしてくれなくていい、君はこの関係を良いものにしようと努力してるのか」とすら思った。
セックスは苦手だと遠まわしに伝えても、無邪気にセックス=男はみんな大好きな事と信じている彼女は信じない。
俺にとってセックスは相手へのプレゼントでしかなく、自分ばかりプレゼントをしていることへの不公平感は、
それが自己中心的考えであると分かっていても抑えることができなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20070217180614
これは私にとってはあながち冗談でもなかった。
セックスが大嫌いだった。彼氏のことは恋愛感情として好きだったが、彼氏とするセックスは大嫌いだった。
どうにかしてセックスを避けてデートを終わらせたいとずっと考えていた。
向こうがやりたがるから『プレゼントをしてあげている』感覚でセックスに付き合っていた。
しかし向こうは、互いに幸福な行為としてセックスを捉えていた。
無邪気なほどに、セックスは心と心をつなぐ至上の手段であると信じて。
何時からか「ソープなら23万する行為を私は頻繁にプレゼントしているのに、その見返りは無いのだ」
と思ってしまっていた。「こちらからばかりプレゼントをしている」と。
だから彼がふと食事をご馳走してくれたり、服を買ってくれたりしても、素直に感謝出来なくなっていた。
「服は買ってくれなくていい、そのお金で風俗に行って欲しい」とすら思った。
セックスは嫌だと遠まわしに伝えても、無邪気にセックス=互いの幸福と信じている彼は信じない。
私にとってセックスは相手へのプレゼントでしかなく、自分ばかりプレゼントをしていることへの不公平感は、
それが自己中心的考えであると分かっていても抑えることができなかった。
原則としてはこうこうだが、実際の細かい運用規程は個別に定められており、実社会では後者が採用されることが一般である。歴史の産物でもあり、大人の知恵の集積といってもいいだろう。にもかかわらず、大元の憲法の条文を持ち出して、大上段に構えているいい大人をみかけた。伝家の宝刀のように振りかざしているが、そのように一刀両断できるほど簡単なことなら誰も苦労はしない。
google:大上段から「正義」押しつける左翼な人々ぐらいだとまだいいけど、自分の正義を正当化するために、奇妙な議論をしている大人とは困ったものだ。その他google:詭弁のガイドラインに当てはまるところが散見されるなど痛々しい。
ASIN:4334032524(「みんな」のバカ! 無責任になる構造 )から引用すると、
「立場」に付随する「責任」論とは違って、「xがyに対して責任がある=往々するべきである」という形での「責任」論は、xとyの双方を具体的な特性を持った「誰か」として特定しないで進めていけば、いつのまにか「みんながみんなに対して責任がある」、というどうしようもなく曖昧な話になりかねない。
「みんなの正義をみんなで守ろう」という形をとるのが日本的な“みんな”の考え方であるのに対して、西欧個人主義というのは、社会的「正義」をいったん可能な限り個人の「権利」に分解したうえで、責任主体としての「個人」にそれぞれの守備範囲内で守らせていこうとする思想である。
法化された社会では、ある意味で、徹底的にエゴイスティック(自己中心的)にあることこそが、「わたし」の「責任」として---「みんな」から---与えられた領分を守る意味で倫理的なのである。
ナチス体制の暴走とは関係ないことはなく、めちゃめちゃ関係がある。それを関係ないと言い切っているのだから、読解力に相当問題ありと見なされるだろう。ついでにもたらされた結果の善悪に言及している時点で終わっているといってもいい。問題はプロセスとして通ってしまったことが主題なのだから。
http://anond.hatelabo.jp/20070208011235
期待するべききもんでもねーわな。
相手にしてみれば勝手に丸裸で飛び込んできて「俺を振るってことは俺を傷つけるってことだからな!」って言う方がよっぽど自己中心的だろうよ。
望まず変な責任を負わせられる惚れられた弱み。
http://anond.hatelabo.jp/20070207184521
どんな振られ方ならいいか、と問われるとなかなかに難しい。
振る側がどんなに細心の注意を払ってくれようと、傷つくときゃー傷つくのです。
いっこ前の発言はそんな気持ちからも来ています。
「わたし、あなたを傷つけてしまうから、あなたの気持ちにはこたえられない」
そもそも俺にこの類の言葉を言った人は、友達でいましょうと言ったから。
その時はそれでいいと思ってた。
けれど後になって考えて、その時に言われた別の言葉の中に
友達への対応としてはあまりに自己中心的と言っていい、その人の考えが垣間見えてたことに気づいた。
ああ、結局どこかでつけ込まれているんだ、と思った。惚れたが負けなんだろうな。
人間だもの、最低限の保身くらいするし。でも基本的には優しい子なんです。そこは分かってるつもり。
だなんて自分に言い聞かせても、
それを許して俺はこの先あの子を友達として遇することはできるだろうか、
関係を存続するにしても一度仕切り直して友達以前のとこから始めるしかないんじゃないのか、と今は思ってる。
こちらはそれを持って丸裸であなたの懐に飛びこむのだからして、
振るに際しても傷つく覚悟と傷つける覚悟とを持ってくれたならそれに勝る喜びはないのです。たとえ想いは叶わなくても。
告白する側は必ずしもそれを義務として相手に要求できるわけではないと分かってはいるけれどね。
http://anond.hatelabo.jp/20070206102356
ですが、蛙の面に水、という言葉もあるわけですし、あなたが地獄に住まう蟲の類ならば、いつまでもいつまでも地獄で楽しく暮らすこともできるやもしれませんよ?妻や愛人や自分の子の涙や憤怒を啜り、時に自己侮蔑の自慰行為に満足を覚え、だけども行動を一歩も変えないであろうあなたは、ひどいひとだ。地獄の蟲だ。
欲しいなら、身内や愛人の肉や涙でも平気でかっ喰らって「かわいそうって思っている&ひどいことと思っている俺テラカッコヨスwww」とうそぶきながら、自分以外の人間全てを食い尽くす孤独の蟲。
だが、それがあなたの幸せというやつなのだろう。範疇的な価値観からすれば全くおぞましい限りだが、これからもどこまでも貪欲に孤独に自己中心的に生きていけばいいと思う。沢山の人を食い潰して、自分の周りに地獄を創り出す忌わしい蟲があなただ。だが、それしか快楽や幸せを感じる水路が無いとするなら是非もなし。
相手が喜ぶことをしようといつも思っていた。そのために相手を喜ばせられる行動をした。実行したことがあるのは、「話をよく聞いてあげる」「さりげなく気遣う」「空気を読む」とか。でもこれらは別に相手を喜ばせるためにした行動じゃなかった。自分を好いてもらうための行動だった。相手を思ってのものじゃなく、自分を思ってのもの。他人を思いやって生きていこう!とか意気込んでいたら、いつのまにか単なる保身人間になっていたって話だ。
自己中心的な人間だけにはなるまい、と常々思っていた。自分のことばかり話さないようにしよう、自分の利益ばかり追求せずに他の人のためになることをしよう、他の人の迷惑にならないように、邪魔にならないように生きよう。それらを自分の思考の根幹にしようと心がけていた。会話のときは、自分のことは極力話さないようにして相手の話に聞こえのよいレスポンスをする、相槌を打つ。誰かが困っているときは、悩みを解決できるように自分ができる限りのアドバイスをする、援助する。何かをするときは、他の人にできるだけ迷惑をかけないために一人でする、進める。そうして自らの信条を貫いていった。他者のために。
そうして過ごしているうちに気づく。どんどんと自分の存在が希薄になっている。自分自身の感情が消えていっている。そして、信条を持つ前よりも自己中心になっているということに。
人のため、なんてのは全部好かれたいがためのものだった。別に相手のことなど考えていなかった。俺を認めろ。そんだけだった。そういうふうに行動していた時だって、自分でそうだと思っていただけで他の周りの人々にはどう見えていたかは分からない。すごく醜いものが見えていたかもしれない。
別にこの文章をまとめる気は無いし、まとまる気もしない。ただ、これまでの自分っぽいものを書いておいて、これからの自分とやらを考えるための比較対象として書いた。これまでとこれからが別物になるかは生きてみないことには分からない。そうなったらいいなとは思うけど。
文章がつくづく分かりにくくて抽象的で嫌になる。でも書く。書いた。読む気はしない。消したくはない。恥ずかしくても匿名だ。
続きです。
まただらだら書いてしまった。自分だったらこのエントリ三行で読むの止める。
あなたはそう思ったのかもしれませんが、自殺について考えたことがあるような人は、中々こういう文章を無視できないものです。たまたまなのかもしれませんが、実際にトラックバックが付いているのが証拠です。私も無視できませんでした。
親があなたを否定していようと、世の中の全ての人間があなたを否定するわけではありません。だからこそ能動的理由がない限りは死なないで欲しいのです。受動的自殺を見たくないのです。これは自己中心的な理由なのですが、私も釣られそうで嫌なのです。私のような歪んだ理由だけでなくとも、あなたの生を望む人はいると思います。今はいなくともそのうちできるかもしれません。
いや、これはどうでもいいのかもしれません。やはり動物なら、単純に考えて死にたくないのに死ぬべきではないのです。生きたいから生きる、ではなく、死にたくないから死なない、というだけの話です。これを否定できる人間なんて、それこそ人間じゃないですよ(現実は小説よりも奇なり、という言葉があるし断定はできないのかもしれません)。
あなたがこの文章を読んでどう感じるかはわかりません。私のように親に否定されたことのない人間が何を言っても届かないかもしれません。しかし、私は生きようと思います。それこそだらだらと生きようと思います。そして、気が向いたときにはこういうトラックバックを書こうと思います。こういうことを書くきっかけをくれたあなたに感謝したいと思います。それで、もしよければ誰でもいいのでトラバを書いていただけないでしょうか。やはり書くだけでなく、返事があった方がうれしいんですよ。トラバがあった分だけ、そのうれしさの分だけ、「死にたくないから死なない」よりもマシになる気がするんです。
知性というのは何だろう。外見を見ただけで、その人に対して、知性を感じる人と感じない人がいる。それは人種や年齢には関係ない。知性を感じる人の多くは、目が違うように感じる。その知性とは何だろう。よくわからない。
本を読んでいるかどうか、とは相関関係があると思う。では本を読んで身につくものとは何だろうか。
知識の量、ではない。ものをとらえる視点、なんだろうか。どんな視点?
自分の持っているものを相対化して捉えられる、ということ?
新しいものを受け入れられるということ?
頭はいいけれど、偏狭で自己中心的な妄想に凝り固まっている人、というのもたまに見かけるな。そういう人は、頭は良さそうだが知的ではない目をしている。頭がよいとは何だろう。知的とはなんだろう。