たとえば台東区に限っても、浅草の大衆演劇や落語が好きな人から、国立西洋美術館が好きな人まで、方向性はだいぶ異なる。教養の方向性が周囲と異なってると話が通じなくて孤立する。
外国に限らず、違う地方の人と交流する場合はその地方の文化に知っておくことが役に立つ場合がある。
しかしそうでもないなら、有限な時間を教養を身につけることに当てるのは、単なる「暇人の私的な趣味」とのことになる。
文系で大学院を出た人が、他人の作った作品に火をつけたり、貶すのが目立つように、教養を身につけたとしても、ロバが馬に変身する訳ではない。
つまり「私はこういう論文を書いた」が、他人を黙らせても良い権威になると勘違いしてる人間は、むしろ「教育投資に見合った知性品性を身につけられたなかった人」と小馬鹿にされ、本人は「無教養な差別主義者に迫害される私」との勘違いから逃げられなくなる。
全部教養以前の問題だろ 教養あるなし関係なく、孤立するようなやつは孤立するし、狭い世界で生きてるやつは狭い世界にいるし、考えがおかしい奴はおかしい 教養あっても損なのでは...
anond:20240830114951