友人の友人(仮にAさんとする)が亡くなったらしい。友人の書きぶりからすると死因は病気や衰弱によるものだと思われる。
Aさんは自分は知らない方だった。
恐らく友人とAさんはSNSで知り合って仲良くなったのであろう。友人はAさんの遺族の方から連絡を受け、周りに亡くなったことを伝えていた。
もうかれこれ5時間近く夜通し悲しみをSNSに書き込んでいる。
自分は昔から死にたいと思うことが結構な頻度であった。多くの人はそんなこと考えたこともないという話を今でも信じられない。誰しもが通る道だと思っている。なんなら今も精神的に苦しくまともな生活が出来ておらず、かなりの頻度で死ぬ事で楽になるんじゃないかと頭をよぎる。
変な話でこんな状態でも趣味は楽しめるし、人間関係も親を除けば拗らせてはいない。この程度で死にたいとか思うのは甘えかもしれないけれど、それでも死にたいと思うことがあることに変わりはない。
大学時代、中学・高校時代の友人の兄が自ら命を絶った。その人は友人の兄でもあり同じ学校の先輩でもあった。他にも様々な理由があって、葬式には自分や他の同期も参列した。
そこで見た友人の顔、親の顔、兄弟の顔があまりに忘れられなかった。ただひたすらに悲痛だった。
残された側の感情はああも辛く見えるのか。
その日を境に死ぬ事に対して少し考えが変わった。
自分がいなくなることで周りに大きな迷惑がかかるとは思わない。確かに死んだ直後は相当な時間的、金銭的迷惑をかけるとは思うが、多分このまま生きている方がマイナスが大きくなるとは思う。
ただ周りの人間の感情の面、ひいては今後の生活に計り知れない変化を与えてしまうかもしれない。それが怖い。
分からない。心配してる人なんて実は0でなんなら喜ぶ人のが多いかもしれない。これは死なないことには分からない。
ただもし周りがこんな人間の死を悲しんでくれるなら、あの時のような感情を周りに抱かせるのは本当に申し訳ないと思ってしまう。だからせめて自ら死を選ぶことだけはやめよう。と思っていた。
ただ今回Aさんの死を見て、「生きないとな」と思うと同時に1つ、今まで考えたことないことを考えた。
人が亡くなって悲しんでるところを見ないと生きようとできないのは、人が亡くなることに生きる理由を見出してるということで、それは倫理的にどうなんだ、という疑問。
決して人の死を喜んでいるわけではないが、そこから生きる力を貰うというのは人としてどうなのか。
今まで自分と死を取り巻くこの構図に疑問を抱かない程度には頭が働いていなかったことも恥ずかしい。
そしてそれに気づいた今、とにかくどういう気持ちで生きていけばいいのかも分からない。
周りを悲しませたくない、という思考で何とかここまで生き長らえてきた。その思考に至るまでの道筋を自分で否定してしまった。今は自分が人の死を喰らって生きている化け物としか思えない。
Aさんはお前に生きろって言ってるよ、きっと