嫌いな人間の特徴を作り上げ、そこにラベルを付け「こいつらは悪だ」と大量の情報を発信する風潮が出来上がることがある。
そのラベルが「弱者男性」のこともあれば「ハッタショ」のこともあるし「意識高い系」のこともある。
このような環境下で、あなたは実名を晒して「私は弱者男性です」「私はハッタショです」「私は意識高い系です」と主張できるだろうか。
社会の風潮に逆らって差別される側に回るというのは、実のところ強い人間でないとできないのではないか。
あなたが実際にどういう人間であるかは重要ではないが「私は弱者男性です」と自ら主張するようなことに抵抗感があるなら、政治権力のプロパガンダに対抗するような能力を持っていない証拠ではないか。
と、こういうことを考えたので、レッテル貼りの「ラベル」がネットに出現したときは、当てはまるかどうかに関わらず自分のことだと思うように訓練している。
そしてSNS上では「僕は意識高い系ですが」「僕はハッタショですが」「僕は弱者男性ですが」「僕は中二病ですが」と言って、社会に抵抗するという楽しみを見つけた。
もちろんこれは「レビュー」でも言えることだ。その映画が世間に高く評価されていようが低く評価されていようが、必ず最高の星をつけてコメントを残す。評価が全然ない映画は積極的に見て評価を残すようにする。
「世間が低く評価しているから高評価しにくいな」などと考える必要はない。想像力さえあればどんな映画の中にも楽しみを見出すことができる。
要するに自分の意見を持つために訓練したいのだ。日本人全員が敵になっても自分を貫けるぐらいにはなりたい。何が正義であるかを批判的に検討し、社会に惑わされないようにしたい。