母親の周りから見ると、不具合(聴けない事)の結果は明らかだけど、
母親からすると自分の不具合の結果とは見えないので、その認知のギャップは、しわ寄せとして周りが吸収しているか、または歪みとして形に現れているか、なんだろう。
ギャップが解消できない原因はこの当たりだろうか?
現状の結果が正しく見えてない(不具合が生じている感覚が欠如している)か、
現状の結果で満足している(不具合が生じている事は分かっているがが自分はそれで良いと折り合いをつけている)か、
現状の結果で満足できてなく相手の所為(相手が悪くて自分が正しいこと)にして辻褄を合わせているか。
課題を言語化できているのであれば、やりようは色々ありそうだが
外界の情報を受け取る初手の「聴く」が出来ないのが困難になっていて、「井の中の蛙」に外の世界を知ってもらうようなプロセスが必要だ。
母親は家族崩壊となりながらも、近くで根気強く説き続けたことで価値観が変わったので良かったが、
聴けない人に聴くことを覚えてもらうのは相当なエネルギーが必要で、周りがわーわー言っているだけで本人は何にも響かず
お互いの時間リソースを消費する関係がほとんどなんじゃないか思う。
そして、もう一つ考えたいのが、この疑問で
価値観が変わるのは増田視点で良い事だが、はたして、本人に対して良い事なのか。ということ。
というのも、「井の中の蛙」を例にすると、
井戸の外から見た景色は、狭い世界にいるので外を見てもらいたい(見てもらわないと困る)と思うが、
蛙が見える景色は、その世界で幸せなのだからそこから脱却しなくてよい。となる。(しわ寄せも、歪みの原因も本人は認知できてない)
もし外の世界を知ってしまうと視野が広がり、生きづらくなる(幸せでなくなる)ことも十分あるだろう。
増田は大事にしたい家族に対して、分かってもらいたいエゴで動く事はできたが、他人に対してはどう考えれば良いのだろうか。
因果応報「いつか自分に返ってくる」が明らかになることで、どのような未来を自分が踏みたいかを考えれるのではと思った。
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