一個人は複数の属性の統合体であるわけで、仮に男の生きやすさが70、女の生きやすさが50だとすれば、じゃあ、男に10の負担を強いて、60:60にしようと言うのがフェミの根本発想なのだが、言うまでもなく1人の人間は、ただ男であるわけがなく、ただ女であるわけでもない。
美醜で、ある男の生きやすさが10、ある女の生きやすさが90だとすれば、性別+美醜の合計での生きやすさは、男Aが60+10=70、女Bが60+90=150になる。つまり、より弱者である男Aから女Bはリソースを収奪しているわけで、これがつまりは「非モテが反フェミである」根本の理由だ。
非モテは、アファーマティヴアクションを否定しているのではない。それが結果的にアファーマティヴアクションとして機能していないと主張しているのだ。
「そちらはそちらで頑張ってください」
と、そうした非モテ的弱者を突き放すのがフェミの定型的な対応になっているが、これは①弱者をヒューマニズムで救済すると言う自らの理屈を裏切っている、②自らが加害者に結果としてなってしまっていることに対して修正措置をとるべきであることを理解していない、と言う2点においてロジカルにも道理が通らない態度だ。
「そうですね、ありとあやるゆる弱者性が救済されるべきです」
と言う穏当な態度にどうして帰結しないのかと言えば、合計150点の女が負担を強いられることになるからだ。基本的には貧乏人のためには1円も払いたくない業突張りと同じマインドである。