昔はわからなかったけど、今はわかるなって事
例えば親の有り難みとか、健康であることの大事さとか、しっかり歯磨きするとか、まあ、年長者が口を酸っぱくして言う事だったり
だが一つのことに気づいた瞬間に得られる物は、より沢山あるかもしれない
例えば親の有り難みでいえば、
それに本当に気づいた人は、たぶん 許すこととか、支え合いの中で人々が生きていることにも同時に気づくと思う
世の中、それぞれの解釈次第でいいんだけど
いまは気づきの少ない人の声がデカくなり過ぎてるし、そういう人を気づかせようとする人たちの声もうるさすぎる。
終いには本人たちも本質なんかどうでもよくなって、ただのマウントの取り合い
気づきは、それを知ることや考えることよりも、何かを経験するという事の方が、気づきを得られる可能性が高い。
それは、努力すれば得られるかといえば、そうとも言い切れない。
俺はいま 大部屋の病床で、老人たちが痛みに呻くのを聞きながら、これを書いている。
俺以外の7人は、全員俺の三倍は歳いってそうな老人たちで、この階にはたぶん40代以下は他に1人も居ない。
経験しなければわからなかった、、、いまの病気の痛みも、この国の高齢者の医療費負担が如何に莫大なのかという現実も、病床に余裕のない医療現場も、、、知っていても、この強烈な体験がなければ、俺はこれからもずっと、なんら行動を改めず生活していただろう
俺も今朝までは発熱と痛みが数日に渡り続いていたが、昼頃からだいぶ病状がマシになってきて、いつもより長くインターネットを見ていたせいで、こんな曖昧な文章を書いてしまった。
本当はくそどうでもいいのに、アレこれ簡単に発信出来てしまうせいで、争いが生まれる
わからないことには、口を閉じといた方がいい