2020-12-10

自分は間違っていると思うことは、卑屈なのか

自分は間違っているという前提に立って生きることは卑屈と言われるような誤った生き方なのだろうか。そんなことに最近悩んでいる。

私は自分の考えや行動には間違いがあると思っている。間違っているかもしれない、ではない。必ず間違いを含んでいると確信している。例えるなら、人が真円を描くことは不可能であり、近似した図形しか描けないのと同じだ。だから私は、自分の考えが正しいという前提のもとで行動しないように心がけている。

ただし、それを正しい方向に修正していくことは可能だと信じている。行動であればトライアンドエラー、考えであれば異なる人との対話を通じてその修正可能だ。正しい考えや行動を実践できない私にとって、耐えず誤りを認識し、修正していくことは唯一のよい生き方方針だと考えている。

から普段から私は何事においても自分の考えを人に伝える時、自分の考えを正しいと主張することはできるだけしない。相手の考えを聞きながら、できうる限り相手の考えと一致をみるように修正していこうと質問をしたり、双方の一致点を提示してみようと努力する。相手に誤りを指摘されれば、その可能性があることは十分あると認めて、本当に誤りであるかを検討する。ただし、だからといって相手の考えが正しいとすぐに考えることもしない。そうやって相手言葉にすぐ飛びつくことも、誤った態度だと思うからだ。なので、相手の考えが本当に正しいのか、自分の納得のいくように質問をすることが多い。

そんな態度をしていると、次第に多くの人はイライラしたり、呆れたような表情や声や言葉になっていく。そうして、最後には「そんなに卑屈にならなくてもいいじゃないか」と言われるようになる。

卑屈とは、日本国語大辞典によれば「自分を卑しめて、相手に屈伏したり、妥協したり、へつらったりすること。また、そのさま。」を指す言葉だ。私としては、自分を卑しめているつもりはなく、むしろ自らの間違いをはっきりと自覚することこそ、尊厳の一つとして考えて上に書いたような行動をとっているので、心外だった。だが、そう思う自分気持ちも、なにか誤りがあるのかもしれない。複数の人がそう言うのだから、それなりの理由があるのだろう。

そこで、タイトルにあるような悩みを抱いている。果たして、私がこれまで生きる上での方針としてきた「自分は間違っている」という信念は、それ自体が歪んだ発想なのだろうか。

もし誤りがあれば修正したいが、周囲の人にどう相談すればよいかもよくわからない話題なので増田に投げてみた。

  • その感覚は正しい。間違っている自覚が正しいって字面めっちゃおかしいけどあってる。 普通の人はそんなことを考えるのが「えげつないほど面倒くさいことが脳の根底でわかってる」...

  • その感覚は正しい。間違っている自覚が正しいって字面めっちゃおかしいけどあってる。 普通の人はそんなことを考えるのが「えげつないほど面倒くさいことが脳の根底でわかってる」...

    • 元増田です。ありがとうございます。 自分の考えに賛同していただいて嬉しいです。ですが、そのまま自説が正しいと受け入れてしまうのは自己を正当化しようとする流れに陥ってしま...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん