ニートしてた間はなんだかんだ、社会復帰したら良いことが待っているんだろうなという幻想を抱いていた。
ハロワで楽な仕事を見つけて、なんだこれなら生きていけるじゃんという気持ちになったけど、
働いているうちに同じことが反復して繰り返されることの苦痛をじわじわと味わうことになった。
真綿で首を締めるってこういうことなんだなと。
結局すぐやめちゃったけど、こんなに楽な仕事って他にあるんだろうかって仕事だったし、
職場の人もいい人ばっかりだったから余計辛くなった。これが無理なら他のも絶対無理だなと漠然と思う気持ち。
心療内科に行こうかと思ったこともあったけど、その屈辱に耐えられないからやめた。心療内科に行くくらいなら死にたい。
だから死のうと思ってドアノブで首吊りしようとしたけど失敗したときの後遺症が怖くなって調べているうちに、
どこにも行けない袋小路に陥った気持ちになって今これを書いている。
死にたいけど死ぬのが怖い。死ぬ理由だって、上に書いたような表層的なものではなくて、
人に愛されたいけれど、人は私を愛してくれない。なぜって、人は目に映る私の「像」を愛するだけだから。
イメージ。それは私自身ではない。それは空想的で、社会的な、拵え物にすぎない。
目の前にいる哀れな人は、結局その像を通じて私と関わるしかないから、仕方ないんだけど、
無力なその人は結局私が本当にほしい人ではありえない。私が本当に欲しいものは手に入らないものだ。
そのことに気がついて、働くのが嫌になってしまったんだ。希望が去勢されてしまったとき、どんな人がそれ以上活動的に生きていけるんだろう。
だから社会に住まうみんなは真実から目を逸しているというより、真実に気が付かないことで平和に暮らしている。それが羨ましい。
心療内科に行こうぜ。なんで屈辱なのか分からないが、心療内科ってわりと不眠とかストレスとかで気軽に行く人多いよ。風邪引いて病院行くのと同じ。ただカウンセリング的なものを...