東京五輪のボランティアが最近ずっと(ネット上では)批判を集めていた。(結局かなり集まったようだ)
しかし、何故そこまで批判されているのか未だに私は理解できていない。
報酬がないことに対する批判が多いようだが、そもそもボランティアってそういうものではないのか?
もし東京五輪で、「無報酬で強制的に働かされている人」がいるのならば批判は尤もだ。(少なくとも自分はそういう境遇の人も少なからずいると思うし、その人が東京五輪のボランティア批判をするのならば当然の権利だと思う)
また、「世界でも日本においても有数の大きなイベントなのに、その準備にボランティアという責任の所在が曖昧な人々を雇うのは如何なものか」という批判も理解できる。(さすがにボランティア活動の範疇ということで、ボランティアで集まった医師の方々含めそこまで大がかりな仕事は任せられないとは思うが。)
しかし、「元々参加すらするつもりもなく、強制的に参加させられているわけでもないのにボランティア活動に憤っている人」がどうしても理解できないのだ。
ボランティア活動というのは、「報酬がないため、参加を強いることはできないがそれでも良いのなら」という名目で募集されているものだ。
そこに強制力はなく、嫌なら参加しなければ良いという自由がある。
再三言っている通り、もし強制的に参加させられている立場の人からしたらたまったものではないと思う。そういった人々のために憤り、批判をするのはまだ分かる。
では、インターネット上で一定数いる「無報酬であるという事実そのものが許せない」という人は何故怒っているのか。
嫌ならば参加しなければ良いというただそれだけの問題ではないのか。
どうもインターネット上の、いわゆる炎上の熱気にあてられて「理由は分からないが、ボランティア活動そのものが唾棄すべき悪である」という方向に進んでいないだろうか。
そして中には、「ボランティア活動に参加するのは政府に踊らされている情報弱者」「ブラック企業に働かされているようなもの」とまで言い出す人もいる。
何度もいうが、自由参加ではないのか。
インターネットの批判と炎上の波に乗せられて、自分が何故怒っているのかきちんと整理できなくなっているのではないか。
長くなってしまったが、要するに私は「参加自由の、無報酬のボランティア活動そのものが批判されている」理由が分からない。
何度か考え直してみるつもりだが、納得のいく答えは出るだろうか。