参ったな。
仕事が終わらんし。
残業すりゃ終わるんだろうけどしない。
わからなくて終わらないわけではないのだから、そりゃ時間さえかければ終わるだろう。
一理ある。
ところが、対策が「がんばるしかない」というのは許せないのだ。
なんか、いい加減にやってもいつの間にか終わっているのが理想だ。
そしてその「いい加減」とは「真のいい加減」でありたい。
昔は奥田民生の歌の歌詞にある「とぼけてる顔で実はがんばっている」なんていうのが良いなと思っていたが、ようやく気づいたのだ。
それは俺に似合わないのだ。
「あいつは本当にいい加減なやつだ。」
「どうしようもないクズだな。」
くらいに評価されるのが似合っているのだ。
スロプロでほとんど毎日パチ屋に行って、年間1,000万円近く稼いでもロクに税金も払わず、稼いだ金は全部飲み代で使っちゃうような人間像がお似合いなのだ。
もうちょいやらなきゃできないなと思えば6割、がんばらなきゃ!と思えば8割、やっべえぞ?!と思えば10割近くの能力を発揮して、ようやく凡人並みの働きができればそれで良い。
それでは「自分はちゃんとやればできる人間」と言っているようなものだが、自分でそんなことを言う人間は本当にはちゃんとできなくて、「がんばってるのにうまくできないなあ」くらいに自己評価している人間の方が案外ちゃんとできているのだ。
それがある意味望んでいることであり、本当にちゃんとできていないくらいがちょうど良いのだ。
そのくらいが似合っている。
涼しい顔してスマートに何でもこなしているのがかっこ良いのだとか、必死で這いつくばっているのはかっこ悪いのだとか、もしそういう体裁を気にするのだとしたら、俺は「あいつは使えねえなあ」くらいに見られるのがちょうど良いのだ。
もっと一生懸命やって、もっと真面目にやって、万が一にも尊敬されるような人間になってはいけないのだ。
鏡を見ても、自分が立派だったり尊敬されるような人間だったりするイメージは、決して浮かび上がらないのだ。
故に望む。
ダメでありたい、と。