昨日、博多のマクドナルドにいったら、隣の高校生が英文法を必死で解いていた。懐かしいなあと思いながら、教育の移り変わりについて、思いをはせた。
今はAIの発達だとか、ARの台頭だとか、グーグル翻訳の発展により、言語変換装置は現実味を帯びてきた。眼鏡やコンタクトを通して、直観的にわかるようになる日も遠くはなさそうだ。
じゃあ、英語を勉強しなくなるのか?個人的にはそうは思わない。
というか現在でも、英語が学ぶべきものかと言われれば、きっとそうではない。
日本は他国と違って、日本語一つで大体ことが及ぶので、コミュニケーションツールとして英語を学ぶ必要なんてほとんどないのだ。
じゃあなんで学ぶのかといえば、自らの日本語をより深いものにするためだと思っている。何かを考えるには比較対象が必要だ。英語を学ぶことで、文法について深くわかったり、翻訳を通して人に伝える日本語を使うっていう行為ができるようになる。これが深まれば深まるほど、自分の器を広がられる。
教育とはヒントを提示すること、教養とはヒントをくみ取って、世界の一部としての自分を意識することなんだろう。重要だけれども、世界に組み込むという点にて、自分を小さくしてしまう。
「揚げ足取り」にも近いけれど、知識を持ち、事象に対して明確な返事をすることができても、独りよがりな人もいる。そういう人はたぶん「教養」が足りてないんだろう。
深夜のドキュメンタリーで見たが、フィリピンから香港に最低賃金で働きにきている人が映っていた。フィリピンの公用語は英語なので、間違いなく英語は話せるのだろう。だけど、国...