大好きなアイドルが亡くなりました。
18歳。詳細は明らかになってませんが病死だそうです。
およそ4年前にはまり、ずっと追い続けているグループの一人です。
「見た目は大人、中身は子供」のキャッチフレーズのとおり、モデルとしても活躍する端正な顔立ち、すらりと伸びた手足といったビジュアルとは裏腹に、番組やライブのMCなどで見せる天真爛漫な姿が大好きでした。
だから突然の訃報には驚き、悲嘆に暮れ、しばらく言葉になりませんでした。
Twitterには同じように悲しむ人たちで溢れており、その言葉を眺めて、自分の気持ちを整理させようとしました。
しかし、それらの言葉に触発され、様々なことを思い返せば思い返すほど、悲しみは増し、言葉にならない想いが次々と胸に去来しました。
「若くして死んだ子は同世代に命の大切さや、死の身近さを気づかせる役目のため神様に選ばれた」
「すごいな。ジョン・レノンや尾崎豊よりも若いうちに神様の前でパフォーマンスするために呼ばれたなんて」
とてもひどい言葉だと思いました。
大切な人を失って悲しむ友人や家族が隣にいたら、同じ言葉をかけるのでしょうか。
でも「~~のために死んだ」とは決して思いませんでしたし、そんな言葉をかける人もいませんでした。
もっと長生きしてもらいたかったし、もっと色んなことをしてあげたかったから、もし何かのために死んだというなら、それが神様であろうと人殺しだと思うでしょう。
でも、そのツイートにはたくさんのリツイートといいねがついていました。
そんなことで大切な人を奪われてもいい人ばかりなのでしょうか。
「死」それ自体に意味を与えて、「いい話」として消費されているような気がして、とても悲しくなりました。
そして、人の死が「いい話」を呟いた人の承認欲求の道具にされているような気もして。