士農工商が既に教科書で使われなくなっているという話が話題になっている。
そもそも4つの区分で表せるようなものじゃないとか、明治政府の見方から脱却したとか色々あるみたいだけど徐々に歴史観が変化していっているのは確かなようだ。
このように史料を元に歴史を従来の学説とは違った視点で見ることを本来の「歴史修正主義」という。
ところがこの用語をホロコースト否定派が「私は歴史修正主義だが、ホロコーストはなかった。」というような形で使用してしまったがために、歴史修正主義者=捏造する人というレッテルになってしまったわけだ。
そのため、現在この言葉は基本的に左翼が極右を否定する際に使われることが多い。
ところが、冒頭で上げたような教科書の記述を変更するような本来の「歴史修正主義」的なことも未だに行われている。
もちろんアカデミックな場での議論等々はあるんだろうが、教科書の記述変更などを考えても普通にやっている。
ところが一部、この手の歴史観の変更に懐疑的な見方をしている人がいる。
なぜなのだろうか?と思った時に彼らの態度が何を警戒しているのかと思ったら、レッテルの意味での歴史修正主義を警戒しているのだなということがわかった。
自分たちが使っている言葉の歴史をよく考えすに、レッテルとして使い続けた結果歴史観を見直すことそのものに警戒してしまうようになったということだ。
今までのポジションや発言の内容を振り返ってみていまさら引き返せないということだろう。
このまま進んでしまうと歴史が唯一無二の見方しか存在しないという方向に進みかねず、凝り固まった歴史観に拘泥してしまいかねない。
元寇・神風・聖徳太子等々もそうだが歴史の見方は刻々と移り変わっている。
老害化しないように頑張っていきたいなと思う。