10代から二十歳くらいまでの間、本棚には800冊ほどの同人誌があった。ノベルティはもらった時のビニールに包まれたまま、本棚の隙間に詰まっていた。
好きなモノに囲まれた狭い部屋を心から誇らしく思っていた。本棚に入りきらない漫画と雑誌が積ん読になるのは仕方がない、だってしまい切れない本棚が悪い。もっと大きな部屋で、大きな収納がなけりゃわたしの愛情は収まりはしないのだ。
そんな中、ひとりの友達が亡くなった。同じくオタクの大親友だ。わたしとは反対に、繰り返し読むもの以外は中古同人誌書店で早々に次の誰かへつなげていた。ノベルティは開封して、さりげなく普段使いしていた。
生前、一度だけ聞いたことがある。なんですぐに売って平気なの?好きなものに囲まれているの楽しいよ?
彼女は笑っていた。ちゃんと囲まれてるよ、と言っていたように記憶している。
亡くなってすぐ、部屋に上がらせてもらった。主のいなくなった部屋に遺されたモノは、まあオタクなのでけして少なくはないのだけれど、それでも全てが丁寧に本棚に収まっている。見慣れた部屋なのに、その日はなぜか違って見えた。
自宅に帰って、部屋を見た。
詰め込みすぎて棚板が歪みつつある本棚と、ビニールに薄っすら埃のついたノベルティ。
歩くたびに足にぶつかり、今にも崩れ落ちそうな積ん読の塔。
わたしの愛情は、なんだったのだろう?
数があれば、量があれば、収まらないことこそが、わたしの溢れる愛情の証明だと思っていた。
わたしが大事にしていたのは、「ジャンルやモノ」ではなくて「たくさんのものを所有するわたし自身」だったのではないか?
それから、大量のモノを処分した。迷うたびに自分に問いかける。「わたしはこれそのものが好きなの?『これを持っているわたし』が好きなの?」情けないことに、ほとんどが自己愛の証明だった。その中でも厳選したものは今までよりもずっと深く読み込んで、手紙にまとめて作者に伝えた。
本棚の歪みが消えて、床が見えた。あれほど狭いと思っていたはずなのに、空間ができた。
モノは減った。でも好きなものに、好きなものだけに囲まれている。何度も深く深く読み込んで、作者の意図に少しでも近づきたい同人誌と、ぼろぼろになるまで使いたいと思えるノベルティ。漫画喫茶や図書館に読みに行く時間さえ惜しいと思える一般書籍。
人のことは言えないけれど、オタクの何割かは買い物依存症なんだと思う。 お金を使って何かを入手するときにドーパミンが出てしまうから、 ついつい買ってしまう。。