※すっごい抽象的かつ観念的な今パッと頭に浮かんできたアイディアにつき乱文です
右翼の人に関しては近年よく使われるようになった「国益」という言葉からもわかるように公益=国益と捉え、日本全体の利益の最大化を目指している人が多い。
それに対して左翼の人たちはこの利益の最大化を目指す集団の大きさが、右翼の人たちのものと必ずしも一致していないように思える。
国益から集団がさらに細分化された、言わば「都道府県益」「市町村益」「地域益」「家族益」「自益」の最大化を主張している人もいれば、一国という範囲からさらに拡大して「東アジア益」「アジア益」「世界益」の最大化を唱えている人もいる。(妙な造語ばっかですまん、僕の頭じゃもっと上手い造語を作れない)
そして左翼の人たちはこれらの益を日本国民それぞれが追求していくことにより国全体が幸せとなり、自然とそれが「国益」へと帰結する、と考えているんじゃなかろうか。
このあたりの違いが各種議論が平行線となる原因を作っているんじゃないだろうか。
例えば原発の議論であれば、機能が集中している都市の電力を作るために地方が原発という多大なるリスクを抱えているという現状があり、地方を犠牲にして日本全体の利益を優先するのか、それとも地方を犠牲にするのは辞めるのかという話になる。
沖縄の軍備に関する議論もこれと同じようなロジックであり、中央vs地方という対立軸が発生している。
「みんなにとっての幸せ」を論じている場合は、「みんな」とはまずどの範囲の集団を指しているのかを気をつけていけば、議論はわかりやすくなるのではないだろうか。