2014-01-19

社会慣習と合理性

いまの日本人の多くからすると、某国のカースト差別だとか、某宗教女性に肌を見せるのを禁じて顔までベールで覆わせるのだとか、不合理でバカバカしいと思うはずだ。

問題は、合理性があるかどうかということであって、つまり自然道理に合っているかどうかだと思う。だとすれば、社会慣習だからどうこうとかいものでもないし、おなじように、法令からだとかモラルからだとかいものでもないと思う。自然法則にしたがっているか道理に即しているかどうかという問題だ。

たとえ一般論としては通用する慣習でも、個別事例には適しているかどうかはこれまた別で、合理性があるかどうかはいちいち考えなければわからないだろうて。ジェンダーだとか年功序列だとかもそうだろう。中には学校飛び級をさせるべき子どももいるし、だが多くは飛び級は適さないだろう。どのように生まれ育ったかで、どの学校に行くかにしても、どの職業につくかにしても、異なるはずだ(だからもちろん、カースト制だとかの身分による分別は合理性が低い)。生まれ育ちによっては例えば「特別支援学校」(「養護学校」)に行くほうがしあわせなこともある。

そう、しあわせというのは一般論ではわからない。合理的か否かも個別具体的にいちいち考えなければわからないことも多い。例えば形式的平等というやつも、下を底上げするのには都合がいいが、それでは合理的とは言い切れない、みんなしあわせっていうわけがない。

例えば、不登校であるほうがマシであることもある。無理やり学校に通わされたら、なにも悪いことをしていないのに、そもそもなにもしていないのに、イジメられるってこともある(私もそうだった)。

合理的か否かというのは、思考停止している人間にはわからない。いちいち思考するというのはしんどいことで苛酷ではあるが、だからといっても、思考せずに勝手に決めつけるというのは教養のないガキの甘えだと思う。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん