もともと善良な市民である私がどういった経緯で詐欺師になったのか、そのことについて良い機会だから書きとめてみたい。
元来私は人とは距離をおいて接するところがあった。決して私が重度の厨二病だからというわけではないが、自分は周りの人たちとは
何か異質だと感じていて、不用意に自分をさらけだすのは得策ではないと考えていた。また、幼い頃から人間社会の裏側を
目にすることが多く、優しさの裏にあるものを敏感にかぎとってしまい、拒絶的な態度を表してしまうような、ある意味ひねくれた子供だった。
そんな子供だった私が選んだサバイバル戦術が、「自分を偽ること」だった。本当の自分を表に出すと、その異質さが人々の
目を引いてしまい、私の意図とは違ったところで、さまざまな誤解を生んでしまう。ちなみに、私自身は異質である自分に
べつだんコンプレックスがあるわけでもなく、かといってそんな自分が密かに好きというわけでもなく、ただ自分はそういう人間だと思ってるだけである。
ただ、それをオープンにした場合、さまざまな不利益を被る場合があるので、無闇にオープンにしていないだけのことである。
しかしながら、オープンにせず自分を偽るのは精神的に負担が大きいし、オープンにしないと手に入らない利益もある。そのことを青年時代の私は繰り返し学んだ。
もっとうまいやり方はないのか?そこでたどりついたのが、「詐欺師という生き方」だった。
何も最初から詐欺師になろうと思ったわけではない。気付いたらなっていた。最初は自分をうまくさらけだすやり方を偶然見つけた、ただそれだけだった。
ところが、その「うまくさらけだす」やり方に改良を重ねるうちに、狡猾さがエスカレートしていったのだ。ウソの設定を適当に追加し、その設定に信憑性をもたせれば、
もっと容易にさらけだせることに気付いてしまったのだ。さらけだせるだけでなく人々に私にとって有益な反応を起こさせることもできる。
ストレートにさらけだしたのでは得られない反応がたくさん得られる。なぜネカマが多いのかの一つの理由が、そのとき初めて分かった。
それまでは人を騙すメリットの背後には、自分を押し隠す苦しみというデメリットがついて回っていた。
それが、人を騙すメリットに、自分をさらけだせるという項目が加わったことで、完全にデメリットが無くなってしまった。
人を騙してはいけない理由が、もうなくなってしまったのだ。このうま味を覚えた私は、自分に関するウソをつくだけでは歯止めが利かなくなった。