昨日の就寝時に、自分が子供の頃、まだ両親が離婚する直前くらいの、私の七五三のときのことを思い出した。
私は七五三の衣装の帯がきつくて、着てからずっと車酔いしたみたいになっていた。それでさらに車にのってより気分がわるくてもうろうとしていた。離婚直前の両親はなんとなく一触即発な感じだった(父の一方的なアレだが)。私が、祖母(父の母)から贈られた晴れ着で体調をくずしていたのはきっと不愉快だったろうし、私の反応がよくないのもたぶん不愉快だったろう。私からはそういう風に見えていた。母はスキをついて帯をゆるめてくれたが、それもおそらく気に食わなかったに違いない。帰りの車内は父の機嫌が悪く、居心地が悪かった。
それで、現在にもどるのだけど、就寝時、ふとした瞬間に、脳内で「あの帯、きつかったよな」と、とある架空の存在(私の好きキャラみたいなもの)が言ってくれて、なんか知らんが布団の中で涙があふれてきた。久しぶりに泣いた。なんの感情かわからないけど、「あの時の帯がきつかった」と確認することが自分の涙のスイッチになっていることを知った。自覚ではなく、他人に言わせることに意味があるらしい。この架空の存在は、ばかではない正直さと考え方や感じ方を信頼しているので脳内に居て頂いている。
架空の存在を脳内に住まわせて、自分の欲しい言葉を語らせるなんて不健全なのかもしれないけど、それは別に視えるものではないし、私に指図もしないし、私が「かれならどうするか」程度に考えなければイメージされない。結局虚構なのだ。虚構ですよーという現実だけを伴う幻想だ。かれは妄想にはなれない。
子供の頃のことをひきずったまま大人になって、なんとか自己嫌悪で自爆するのを回避するために、どこからどこまでが親に原因があったかを確認したりするけど、そういう姿を見て「いい年して親のせいにするな」などと言う人が結構いる。しかしその反面、解決方法的なものに「父親一発ぶん殴ってこい、話はそれからだ」みたいなの提示されたりして、なんだか、ただ一般論を言いっぱなしてる感じが気持ち悪い。まあ、だいたいは詳細な背景も聞くまえに、私が相談もしていないのに一方的に言ってくる人の使う台詞だけど。
ぶん殴ったり直に文句言ったりしても簡単に解決しないから、こうしてぐるぐるずるずる大人になるまでなんとかやってこれてしまったんだと思うので、もうそれは今の私には解決策じゃないし、なぜいまさら『暴力』という手段で自分も父親みたいな人間だと自覚させられるような真似をしなきゃいかんのだ、としか思えない。