現在の民主は与党側でありつつ参院に過半数を持たないというねじれを初体験し、「上手く行かないのは自民が協力しないから」という恨み節をメディアに代弁させていて、メディアは主語を書かないから【民主の窮乏】があたかも【有権者、国民の窮乏】であるかのように誤解させられている。
ここがミソ。日本語は適度に省略しても大意が通じる言語だが、字数に制限がある新聞では、「(誰が)言った、行った」「(誰にとって)不利益である」の、【誰】をしばしば省略する。代わりに「苛立つ」「力なく」といった情感刺激の修飾詞を挿入する。
これによって多くの読み手は、【民主に起きている不利益が、自分自身に起こるのだ】と錯覚させられてしまう。この手法は本来小説・ドラマで使われる技法で、読者を主人公視点に、視聴者をカメラ視点に置くことで物語世界の相対的利益が自分にとっての絶対的利益と誤解させられてしまう。
怪談で主語を省略した文章を重ねていくと、読者は他の誰かが体験している出来事を、自分自身が体験しているように錯覚してしまい、没入感が刺激される。昨今の「主語、目的語」を欠いた新聞記事の記者の大意は事実に基づいていても、読者は受益者を誤解するのと構造は同じ。よくできてると思う。
「それは誰が言っていて」「誰がそれによって得/損をして」「誰が窮地に立つことが、誰の利益になって」「自分はその利益の余録を得る立場か、負担する立場にいるのか」を読み取るのが恐らく本来的な意味でのリテラシーではないかと思うが、提供情報に「誰が、誰に」がないだけでそれは困難になる