例としては『UNDERTALE』『ひぐらし/うみねこのなく頃に』『Forest』など。
「作中人物が現実世界の我々を認識し、我々に向けて語りかけてくる」というメタ構造と書いた方がわかりやすいか。
これらの物語で作中キャラクターは例えばこのような趣旨のことを語りかけてくる。
「ゲームをリセットして消さないでくれ。あなたにとってはゲームだが我々はこの世界に生きているのだ。」
「奇跡が起きなかったのはあなたが奇跡が起きると信じなかったからだ。」
この語りかけは物語世界がどこかに存在するのではないかと聞き手に錯覚させる。
そして錯覚ではなく実際に物語で語られている世界はどこかに実在する、そうであってほしいと私は祈っているのだ。
『Forest』のクライマックスで作中人物であるアマモリとアケルの二人は「自身が経験している悲劇的物語は語り手によって想像/創造されたものだ」と、悲劇的「物語」を語った『Forest』の語り手に向けて悪態をつく。
そして直後のシーンで「外」に世界があるのと同じように「中」にも世界がある、とも言う。
『Forest』作中でこの二人は語り手として『森』という物語を創作し、その世界に干渉していた。
つまりアマモリが物語るという行為は世界を生み出す行為であり、アマモリがいる世界もまた誰かに物語られた世界である……と私は解釈した。
そして『Forest』のラストでアケルは『Forest』の語り手に協力し、『Forest』という物語を無理やりご都合主義的ハッピーエンドに仕立て上げる。
一流の悲劇ではなく三流の喜劇がよい、その物語の中で生きる存在にとっては……。
『Forest』という物語の聞き手となって以降、自分が語り手となるときは登場キャラクターに対しての加害性を否応なく意識するようになった。
だから私は「三次元の創作者が(自作であろうと)二次元のキャラを侵害していい理由はない」という考えに共感する。
「鍋に弾丸を受けながら」の原作者、青木潤太朗の「三次元の創作者が(自作であろうと)二次元のキャラを侵害していい理由はない」という考えがどのような背景から来たものかわからない。
そういうのはっきり言って まともな構造で話作れない作家の逃げで寒いわ