伝わらなかったのは読者たちの責任ではなく、完全に自分の責任だ。伝わるように書けなかったのだ。今読み返したらわれながら酷い。
自分が苛ついていたことをもう一度冷静になってみると、「ブコメ」や「世の中」という言葉は出てこない。
一言でいうなら、根っこは思考活動をゲームの一環に組み込んでしまうことへの嫌悪感だった。はてブの存在意義とか、世の中が変わる変わらないというのは二次的なことだった。快楽がどうとかも関係がない。もう一度自分のためにまとめて直してみようと思う。
文字列の中に落ち度を探して指摘する作法を学ぶのは簡単だ。相手がエラソーな言い方をしていれば「何様だよ」「だったらお前はどうなんだ」という言葉で払いのけ、自己矛盾に対しては「ブーメラン」で済む。そういうノウハウがどんどん上達していくことは醜い。人の言葉を一定の規則に従って次々と検品していくようなことを思考だと呼びたくない。
お気軽に思ったことを書ける場があることは素晴らしい。何に代えても死守すべき権利だと思っている。しかし、特定の場にずっと身を浸していると、思考様式が一定の方向に傾いてくる。これは確実にある(もちろんそうでない人はたくさんいて、そうでない人もいることで問題は伝わりにくくなる)。「~な時点でお察し」「良記事」「○○案件」というすり減った言葉を気軽に繰り返し使うことになんの抵抗もない人がいる。むなしさも感じないし、ものを考えているつもりで生きている。
結果的にコメントの集積が「日本死ね」のときのようなセンセーションを生み出すとしても、それに参加していたある個人の心に隠れている卑しさは消えない、と思う。俯瞰で見たときに何が起こっているかは重要じゃなかった。もっとミクロな話だった。ネット上で意見を発信し続けている誰か(それが「おまえ」かもしれない)の内側に自己欺瞞はないか? という話だった。
で、こういうことに文句を言うのは限りなくゲスの勘繰りなので、絶好のツッコミ所となる。「そういうお前はどうなんだ、反響があってうれしかったんだろう?」と笑われる。そのサイクルがこれからも続くのが予期できてしまうことが、自分はとにかく嫌なのだ。