物心ついて、両親に褒められた記憶がない。成績は良い方だったし、運動神経も悪くはなかった。
真面目一辺倒ではなかったから、子どもながらのいたずらで叱られることもあった。ただ、褒められた記憶がない。
2番になって、どうして1番じゃないの?と冗談混じりに言われた。もしかするとその時多少は褒められていたのかもしれない。でも記憶はない。
実家を出て、大学に入り、アルバイトを始めるまで、自分の容姿を良いと思ったことは一度もなかった。人並みのコンプレックスを持っていた程度だった。実家を出たあと、初めて他人に容姿を褒められた。からかわれたと思い、強く否定した。それから何人かに褒められ、初めて容姿がそこそこ良いのだと自覚した。正直言って、他人と素直に接することができるようになった。厨二病的な卑屈さが薄まった。
アルバイトは楽しかった。仕事を覚えれば覚えるほど給料があがった。替えがきくことは理解していたけど、誰かに必要とされていることがはっきりと分かった。
就職して、それなりに壁にぶつかり、落ち込み、奮起した。職場には些細なことを褒めてくれる先輩がいた。自分が無意識だったことを拾って素直な言葉で表現してくれる。自信をなくし、何も手につかなくなっても、先輩は丁寧に事実だけを褒めてくれた。
マネジメントを勉強するようになって、承認欲求という言葉を知った。
容姿を褒められたとき、時給が上がったとき、先輩に褒められたとき、一つ一つが前を向かせてくれたことを思い出した。
そこにいていいんだ、あなたの居場所はここだと、そう言われた気がしたのは承認欲求が満たされたからだと分かった。
同時に、実家に対する居心地の悪さの原因にも気づいた。
毒親でもないし、真っ当に育ててくれたのは確かだけど、居場所のなさをずっと感じていた。
職場は給料、ポジションで自分の必要性を明示してくれる。替えがきくサラリーマンであることももちろん理解しているが。
褒められずに育った人間は、他人をきちんと真っ直ぐに褒めることができないのかもしれない。
現に自分は他人を褒めるのがとても苦手だ。なにせ褒め方がわからない。
自分を褒めてくれた人達は、事実を褒めてくれた。最初は抵抗感があったものの、嘘臭さはなく、誇らしい気持ちになるものだった。
誰かを褒めたとき、上手に気持ちを伝えられているのか不安になる。伝えそびれることも多々あり、申し訳ない気持ちになる。
意識し始めて約5年。少しは上手にできているのだろうか。部下は居心地の悪さを感じていないだろうか、友人に嫌な思いをさせていないだろうか。
次、両親に会うときは、我が子を褒めた記憶があるのか聞いてみよう。
今からでも遅くない。あの頃のことを褒めてもらえれば、自分が誰かを褒めることにもっと自信が持てそうな気がする。
さて寝よう。