2015-04-24

父は癌で死んだ。その1

http://anond.hatelabo.jp/20140405030551

を書いたものです。

父は癌で死にました。2014年6月13日です

皆さんに思いのほかの言葉を寄せられて、救われたことを思い出します。

当時、本当はトトロ的なもふもふものの中で声をあげてわんわん泣きたかったけど、長男だし、家族もいるし、仕事も忙しいし、立ち止まったり、折れたりしたらもうだめだって、動けないって思いました。強がることしかできませんでした。

友達にたよればよかったのに、それもできなかったときに、見ず知らずの人から寄せられた言葉はとても頼りになりました。

この場を借りて遅ればせながら御礼申し上げます

あの日記を書いた後、嫁と二人の子供をつれて、父を見舞いに行きました。母と、弟夫婦も来て、にぎやかな見舞いになりました。

病院の待合室は、我が家リビングのようになり、いつものような会話が続き、子どもたちはいものように父と母にじゃれ、持ってきたお見舞いの絵や折り紙の工作をわたしました。

静かで落ち着いた時間が流れました。

父が死ぬということ以外、何も変わらない団らん。

この時は父の癌が不治のものがとはいっても、退院して、旅行にいったりはできるものだとは思っていました。

翌週、会社休み信濃町病院に転院した父の検査結果を母と聴きに行きました。

ベテラン医師は、写真を見せながら、父の病状は想像以上に悪く、手の施しようがなく、悪くすれば数週間単位の余命であることを告げました。

何か、会社の異動を告げるような、淡々とした、抗うことのできないような物言いでした。

母と私はあっけにとられ、何も考えることもできませんでした。医師は30分後に父に病状を告げるから同席してほしいといい、いったんその場は解散になりました。

嫌でした。

父は、まだ旅行に行ったり、家に帰ったりと余生を過ごす希望を持っていました。

しかし、もう家に旅行はおろか、おそらく家にかえることもままなりません。そんなことを医師が父に告げる場にいるのは辛く、逃げ出したかったのを記憶しています

父は静かに聞いていました。治療方針についてもすべてその医師にまかせるとだけ告げ、告知は終わりました。

胸中いかばかりであったかと思います

病院を出て、本当であれば母を支えるべきであったかと思いますが、このままこの渦の中にいたら、自分が壊れるんじゃないかと思い、そのまま母とわかれ、もとから予定されていた友人たちの飲み会に合流しました。

強引にでも、日常自分を戻す必要がありました。何食わぬ顔で友人の飲み会の輪に入り、そのまま帰宅し、床に就き、翌朝出社し、ごく普通毎日に戻りました。

ここから短く、長い、父の戦いに寄り添う時間が始まりました。

続く。

記事への反応 -
  • 「~という記事を書いた者です」って感じで続きを書く人はそれなりに見かけるけれど、 元記事の方に続きのURLを貼ってないパターンがすごく多くて困惑するわ。 「本人だと思われない...

  • 母親から父が癌になったとメールがきたとき、なんの根拠もなく、おそらく病状は深刻ではなく、切除すれば完治するだろうと思っていた。 今日、母親から、転移がひどく、完治の見込...

    • 笑っても泣いてもいいよ。顔見て思ったことを、なるべく悔いなく、全部言いなよ。 うちは自殺だったんで、そんな間もなかった。 わずかでも打ち明けあう時間があるだけ、幸せだ。

    • うちはテラ心筋梗塞wwww

    • お父さんは未来を失われた。 失ったが明るく振る舞っていられるのは、 自分自身の未来をしっかり見つめておられることと、 お母さんの支えが関係している。 そしてあなた自身の存在...

    • 子が思うほど、親は子を思ってないから大丈夫だ。サバサバいこう

    • 文学部は就職に不利だから法学部に行け、という記憶程度というが、そういうアドバイスをできる父親は少ない。一見なんでもないようで、一番苦労するだろうことを案じている。だか...

    • 巨人大洋戦…っておっさんいくつだよ。ナイーブになってる場合じゃないだろ。いい歳して。

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