2013-03-10

チラ裏 自分を投げ込む

 今、自分はうまくいっていない。それは、自分怠惰のためで、自己弁護のしようがない。ずっと、目を逸らしてごまかしていたことだ。それが露見したからうろたえているなんて往生際が悪いにもほどがある。

 しかし、今最も憎いのはそれではなく、そのような状況を周囲にも求めだしている自分発見したことにある。

 "アイツ、今はいときの気分で意気込んでいるようだが、どうせうまく行かない。惨めに失敗する様をここから見ていてやろう"という醜い下衆な心。自分はなにひとつしないくせに、たまに「そんなんじゃダメだよ」とかいって、失敗した時にすかさず「だから言ったじゃん」って言って、自分と同じような惨めな立場にとどまらせてやろうとしている自分存在に気づいた。

 最悪だ。一番嫌な人間じゃないか。一番なりたくなかった人種になりつつあるじゃないか。今までは理解出来なかった嫌な人たちの気持ちが、今ははっきりとわかる。僕は今、自分に関わる人すべてをみじめな立場に引きこんでしまうことで、惨めな自分を慰めようとしているのだ。

 最近、彼らの努力が立て続けに実ったことを知った。僕が嘲笑おうとした彼らの努力は報われた。今では誰も馬鹿になどできないだろう。それなのに、僕はそれを称えるでもなく、喜ぶでもなく、悔しがっている。自分が負けたからではない。当初の目論見通りに嘲笑えなかったことを悔しがっている。

 どこまで見下げ果てた人間なのだろう。

 僕は周囲の人たちを遠ざけた気分でいた。もう僕をあざ笑うな。昔の僕を今の僕の中に求めるな。頼むから放っておいてくれ。気がすむまで休ませてくれ。そんなことを思いながら人付き合いを避けてきた。

 でも、その認識は間違っていた。当然だ。僕が遠ざけられていたのだ。そして、僕の考えは間違っていた。特にこの一年間は。

 まず孤独を求めた。自立する力を養えると思っていた。とんでもない。自立とは自分一人で周囲の人間たちと折り合いをつけていくことにあるのだ。人付き合いを絶って、そんな力が養えるはずもなかった。

 意欲を育もうとした。意欲的に取り組めないのは意欲がないからだ。休んで意欲が湧いてきたなら自ずと体が動くだろう。これも、間違いだった。休み続けた体は衰え始め、それに伴い思考も鈍磨してきた。意欲とは、待つだけでは湧いてこない。僕に必要だったのは、ただ待つことではなく、意欲が湧き出てくる妨げになるものを取り除くことだった。気づけば乱れた生活に浸りきって無駄時間を過ごしてしまっていた。

 絶対に倒れない目標を立てようとした。どんなことがあっても変わらない目標。誰にも馬鹿にされず、誇りが持てて、人生をかけるに値する、そんな目標。そんな大層な理想を求めるうちに、小さな目標に大して無関心になり、小馬鹿にするようになってしまった。

 もう、すべてが間違っていた。こんな単純なことに気づけないくらいに僕は孤独を極め、ひねくれてしまっていた。僕は、この一年が短い生涯の中で最も愚かしい一年だったと考えている。幼少の頃と比べれば、なおさらだろう。あのころ毎日必死だったはずだ。毎日新しい発見があり、挑戦があり、明日が明るかった。今はどうだろう。賢そうなフリをしながら、考えていることは馬鹿のそれより誇大妄想に近い。歳を重ねるたびに愚かになっていっているようにすら思える。今は、かろうじて得られているこの状況を手放さないための最低限の努力を、文句をぶつくさ垂れながらこなすだけの、主体性のかけらもない生活を送っている。

 自己嫌悪のまま勢いに任せて書いてみて、やっとわかった。ようやく目が覚めたのかもしれない。

 目が覚めたのならば、すべきことは決まっている。

 意図的に自分を変えることはできないが、自分を取り巻く環境を変えることはできる。どんなに結果が恐ろしく感じられようが、人間環境の中に自分を投げ込むことができる。これこそが人間の持つささやかだが決定的な強みなのだ

 今に限ったことじゃない。いつだって自分を投げ込んできたはずだ。投げ込んでしまえば、しばらくは環境に揉まれることになるだろう。自分を投げ込んだことを後悔するかもしれない。それでも、今は投げ込むしかない。

 

 多分、辛いことになるだろうけれど、これだけは間違っていないはずだ。

  • いい増田だと思う。自分の実体験にもとづかない情報は安易に鵜呑みにするべきではないってっことついつい忘れてしまう。

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