小中高あたりでは、大雑把だったり基本だったりでよいから、そういった法則性も教えるべきだ。
そういえば小学校の最初のころ「は」の後は必ず「、」って教わった!
くとうてんはむかしはなかったけれどよみやすくするためにかいはつされたとききました
なのであいてのことをおもいやってくとうてんをうてばいいとおもいます
でもくとうてんのうちかたがみんなうまいわけではないでしょう
そういうときはすこしでもあいてのいとをよみとけるようにあいてをおもいやってよんであげればいいとおもいます
みんなはっぴー
マジで?
教育実習におもむく前に、「どうやって教えるのか」という授業はない。
教育学部ってあると思うんだけれど、あそこって、一体何を教えてるの?なんで教えないの?
なんか、驚愕の事実を知った、ってカンジ。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200803120100.html
横増田。
でも担任の発言は「電話はします」であって「確実に連絡します」ってことではない。
そりゃ「確実に連絡します」なんて言ったら、
いざその時になって携帯繋がらなくて連絡出来なかったら後で責められるだろうからね。
単語だけ抜き出したって意味がないよ。
文脈を読まないと。
今後ケガでも何でもとにかく学校でなにかあった場合は自宅電話ではなく、緊急連絡先である携帯電話に連絡くださいよってことなんだよ。学校でなにか起こったときに、その連絡を不在の自宅宛にしてどうするんだよ?親としてまったく対応できないじゃん!って思うわけよ。
(中略)
親が責任持つにしてもきちんと連絡だけはしてくれないと困る。でも担任の発言は「電話はします」であって「確実に連絡します」ってことではない。じゃあ何のために確実に連絡できるような緊急連絡先をわざわざ家庭調査票に書かせてるんだよ!うちは親の携帯番号と祖父母の自宅および携帯番号まで記入してるのに!緊急連絡先の意味が全然ないじゃん!と思うわけよ。連絡することが目的ではなく、電話をしたという行為が目的なのかと。
(中略)
諦めてたつもりでも、まだ教師というものに期待してたのかなあとちょっと恥ずかしくなった。
この文からは
つまり
ということが読み取れる。
この文章からどうやったら
その時は繋がるまで何度も電話掛けろと?授業放置して?それでも繋がらなかったら?
なんて導き出せるの?
まず「繋がるまで何度も掛けろ」なんていうのは一言も書いてない。ましてや授業放置しろなんて一言も書いてない。前の文で
息子自身からもじっくり事情を聞いて指導した。脱走しても探しませんということについては、それが学校の方針なら別にかまわないよっていう感じ。うわー、そういう対応するのかよーとは思うけど、生徒は我が子ひとりだけじゃないからね。そこまでのサービスを学校に期待はしてない。
と書いてあることから、それは明らか。ということはこの「授業放棄しろと要求している」「子を特別視しろと要求している」ということは、なぜかつっこみを入れてる増田から突然沸いたように現れたことになる。にもかかわらず、その次の行からの文は、元増田が「授業放棄しろと要求している」「子を特別視しろと要求している」ということが前程に書かれているように読める。
昔から授業抜け出す奴はいたけど、中学生になったらそんなの放置されるのが普通だった。
むしろ授業放置してわざわざ探して親に電話するのがいかにも現代的な過剰対応だと思ったよ。
状況を知らないのに、放置されるのが普通となぜ判断できるの?少なくとも、その場にいた人が現場の判断で行った対処が、ちょっとネットの隅っこに書かれたような情報だけを頼りにした判断より悪いとは思えない。
さらに言えば、授業放置して探し親に電話するのが現代的な過剰対応かどうかの議論はおいといても((過剰対応であることには同感である。))それって全部事後なわけで、元増田が要求したわけじゃないよね。
あなたが書き込んでいるのはれっきとした現実世界につながってるものだよ。元増田だって当然人。
匿名で適当に斜め読みして誤読して、深く考えずに適当な批判を書き散らしたものは誰かがこうやって読むんだよ。
無責任に書き散らすことは必ず誰かに影響を与え、感情を呼び起こしてるんだよ。そういうこと解って書いてる?
俺の教師も増田並に柔軟な思考を持っていたらよかったと思う。
個人的には、明治の初めまで日本人の「論理的思考力」は漢文を学ぶことによって鍛えられていたと思うが、
同じ役割を英語に期待するのはやはり難しいと思う
時折こういう話を聞くが、俺は日本語が特別、外国語と比較して論理記述力に劣るとは考えていないので「論理的思考力」は日本語で学ぶべきだと思う。
ただ、日本語は自然言語であるので、訓練をしないと容易に論理と感情が混同されるので
そう言う意味では、プログラム言語で「論理的思考力」を鍛えるのはアリだと思う。
・・・そう言えば、俺の書いた論説文が教師に「無味乾燥で感動がない」とか怒られたことがあったっけw
「学びて思はざれば則(すなは)ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則(すなは)ち殆(あやふ)し」
結局はこれに落ち着くのかな、、、
純文学にこだわらず、マンガでもラノベでも読んでおけば何かの肥やしにはなると思うし
知識と経験の両輪が備わって初めて意味が出てくると言うには賛成だ
また「言葉」というのは、一見共通OSのように見えて実は「出力が近似である」に過ぎない。だから、誰もが気づいているように「同じ日本語」を喋っているように見えて「理解しがたい」人間が存在するのだ。
議論をするにはそのOSを統一するというのは前提であって
論文の様式が統一されているのはそのためだし、専門用語には定義がついている。
そして論説中はたとえ話は厳禁だ
文学の弱点はその統一がなされていないことにあるのだと思う。
文学者同士が議論しようとするととたんに揚げ足取り詭弁合戦になるのはそのためだ。
国語が「一つのことを表現するのにたくさんの言葉を使おう」と教えているのは論説文を書くための教育では完全に誤りだ
増田はそうならないようにとても注意しているのがわかるし非常に好感が持てる。
(雑談なので堅苦しくはする必要はないが、現に文学の定義すら揺らいでいるw)
だから、文学は「「言葉」を限界まで使いこなす」ことは感情表現の分野に限定されていると思う。
それは音楽で言うところの調和がとれて聴こえるどの和音を探求する作業に近しい
感情は脳内のブラックボックスに発生しているので、その表現が多様になるのは必然である。
それは完全に芸術の側面だ
>>いわゆる有名な「ブンガクサクヒン」を授業で取り扱う意味というのは、究極すればここにのみ意味を見いだすことができる。
語彙力を増やすのは素晴らしいことだ
せいぜい言い得るのは、表現はその的確さで評価されるべきで権威で評価されるべきでないという程度だ
広まったキャッチコピーや2ch語にはそれなりのものが含まれていると思う
結論としては文学屋は「情報伝達」を行う能力を持ち合わせていないのが大多数で
おまえがすることは電話じゃない。
レンタカーでも何でも良いから車を借りてすぐに会いに行くことだ。
次の日仕事があるけど、そんなの休めばいい。
そんなのは八ヶ月も行動しなかったことを後悔し続けるのに比べれば小さな問題だ。
今すぐに動かないとおまえの大好きな彼女は絶対手の届かない遠いところへ行っちゃうぞ。
いや、それだけの問題ではないようだ。
実際に「日本語に不自由」な人に会えば分かる…。
てにをはからしておかしいし、句読点も一切ないか、一音節ごとにあるか、という感じだ。
完全に鬱だな。あんま考え込まないほうがいいよ。
天気いいから、嫌なこと忘れて屋上とかで寝転がって
チクワ咥えて深呼吸とかするといいよ。
空気がチクワの味になる。
チクワを食べてないのにチクワ味が楽しめる。
15分くらいで全体的に乾燥してきて味しなくなるけど、
唾でぬらせばまたチクワ味の空気が復活する。
チクワを咥えながらチクワ味の空気のように
お金も増えたらいいなって青い空と雲を見ながら考える。
きっとすごいアイディアが浮かぶ。
もし浮かばなくてもチクワ味が楽しめるし嫌なこともちょと忘れられる。
=あやしいnews2nd
http://anond.hatelabo.jp/20080625190052
いやいや、センスの問題とかじゃないでしょ。息継ぎの問題と考えれば。
これだけじゃ説明足りないか?(http://anond.hatelabo.jp/20080625175459 向け)
最近、読点の使い方が明らかにおかしい人がよくメールをくれるんだが、その人に、
「あっ、俺の読点って使い方って変なんじゃね?」
と気づかせる一言はないだろうか。できるだけ穏便に…。
こんな11人しかいないところに、そうそう都合よく国語の教師なんているわけないよw
うわあ、ゆとり乙と思った老人が1名。
日本語の句読点の打つ位置が分からない人の話が出ている。
多分増田は、日本語に不自由な人なんだろう。
感覚的に理解できないタイプなんだな。
で、多分国語教師は国語が得意だから選んだというタイプだろう。
自分もそうだが、国語が得意なタイプは感覚的に理解できてしまう。
(恐らく読書経験に基づくものだろうが)
でも、日本語に不自由な人は説明したところで全くそれが分からないようなのだ。
例えば、「~たり、~した」という用法が間違いで、「~たり、~たりした」と書かないといけないよと
教えても、「なぜ?」と聞き返され、数日で頭から抜け落ちてしまう。
もうこればっかりはセンスの問題なんだろうと思う。
万人が国語も数学も理科も社会も得意なんて無理なわけで、
国語センスがない人もいれば、理科のセンスがない人もいる。
あ、で、教師が国語が得意(科目の得点がよかった)だからといって
教えるのが得意とは限らないという問題は、今の教育実習のシステムにも問題があるな。
教育実習におもむく前に、「どうやって教えるのか」という授業はない。
いきなり現場に行って「さあ自分でやってみて」となるだけ。
教える側からしてOJTなんだから、まあ教わる側もOJTになるよねと。
教師に教える方法を教えるべきだよな。