はてなキーワード: 多数決とは
そこで直接民主制ですよ。
さて、その「すべての案件」とやらは何件くらいだと想定しているので?
判っていてあえて、とも思うのですが。
「意思決定の手法として対話を最善と考える」のは、あくまで「代議制民主主義」
代議制民主主義においては「多数決は糞」でいいのですが、直接民主主義の理念に
おいては、「多数決」について、そこに一般意思を認める、少なくとも「話し合い」
知っていて「民主主義」とその一部の一派でしかない「代議制民主主義」との区別を
あえて曖昧にして書く誤魔化しをしているように見えるのですが・・・
ついでに橋本氏はキャリアからすると不自然なのですが、法学のプロであっても
政治学については素人であって、本当に政治学については疎い可能性があると
思います。橋本氏は過去に「首相公選制と大統領制を混同していて、首相公選制の
主張のつもりで大統領制を唱えて、後に用語混同に気付き訂正した」などという
政治学の基礎を知っていればありえない間違いを冒したこともあります。
別に「独裁」を連呼はしてないけど、橋下も、その支持者も嫌いなので一言。前出の動画を見て簡単に要点をまとめるけど、
まあ、おおむねそういうことを言ってる。ここまではOK?
でも、この上段と下段は矛盾してる。そこが理解できているのだろうか。これをなぜ矛盾というか、順に説明したい。(これが矛盾だと理解できる方は、一気に下の「矛盾について」までジャンプしていただいて構わない。)
まず、橋下や多くの橋下支持者の言う「民主主義」とは何か。本当に理解しているのか? たとえばそういう人に、民主主義って何?って聞いてみると、それは多数決のことだとか言う。馬鹿!としかいいようがない。少しはググれ。多数決というのは、民主主義の本体ではなく、言ってみれば糞のようなものだ。生きていれば必ず出る。それが糞。だが、それはものの本質ではない。やむを得ず出す余剰や排泄物を本質だと言ってみるのは、スカトロプレイに人間の真実がある、というSM愛好家の口吻と同じ程度の説得力しかない。要するに一種の自己弁護と詐欺である。
政治とは意思決定だ。その意思決定の主体を、どこにおくか。大昔は神に預託された巫女が、あるいは神権をもった王がもった。しかし、徐々に一人の意見の過誤を防ぐ意味から、多くの頭脳による方法が用いられるようになり、君主制(一定の中からトップを選ぶ)、寡頭制(複数で決める)、貴族制(階級全体で決める)、あるいはそれらを組み合わせることで意思決定がなされるようになった。古代に一度行われていた民主主義は、近代に入り、社会や経済の成熟と歩を並べ、自由主義・資本主義社会の進展とともに、「みんなの意見を合わせると、おおむね正しい結果になる」という知見の下、選挙による間接民主制という形で、多くの国で採用されることとなった。(余談だが、間接民主制をとる場合、大前提として、投票する大衆は、現下に起きている事態について、必要かつ十分な知識をもつ必要がある。そこで、間接民主制をとる集団では情報を適切に配分する方法が必要となる。多くの近代国家では、そのために民主制とセットで、権力から自由なメディアを発達させてきた。自由なメディアの無い国に、民主制は成立しない。)
で、「みんなの意見」をまとめるために、民主主義はどのような方法を取るか。それは「話し合い」である(というより、それ『しか』方法はない)。集団での意思決定であるから、理でもって他者と交渉し、協調の精神で話し合いをすすめながら、最終的に合意を得て決定する。その際、たとえ少数であっても、その少数意見を尊重すること無しには、集団で合意の形成などできない。特に、間接民主制の下では、たとえ一人の意見であっても、その一人の背後には膨大な人間が存在しているため、軽視することは許されない。少数意見を採らない場合、反対を主張する多数派には「採らない理由を合理的に説明する」義務があるのは当然だ。
ただ、もちろん政治は現実のものであり、現実の人間は不完全なので思想・信条や見解の相違がある。時代の要求する文化によっても、物の価値は変動する。その変化の前後で人の価値観は異なるだろうし、そうなると、どれだけ理を尽くしても最終的に対立が解消しない、という事態は起こり得る。だがそれでも、もちろん政治は決断をくださなければならない。だから、理を尽くして越えられない壁がはっきりしたときには、それを越えるため万やむを得ない解決手段として、『多数決』が用いられることになっているのである。
本来、とにかくひたすら話し合うのが民主主義である。だから、決定を多数決に持ち込むような事態は、民主主義が敗北するときと言ってもよい。だが、民主主義が敗北しても我々は民主制を放棄するわけにはいかない(それよりマシな方法が存在すると知られていない)から、その場合に意思決定を行う最終手段として『多数決』は許容されているに過ぎない。多数決とは民主主義の糞だというのは、つまりそういう意味だ。現代日本の民主制は、理と協調の精神による話し合いを通して多くの素晴らしい意思決定を行っているが(与野党がケンカばかりしていると思っているお子様は、日本の色々な法律がどのように成立しているかちゃんと確認すべき)、不完全な決定のいくらかを多数決という糞としてひり出してもいる。それだけを見て、多数決は素晴らしいなあ、とか思ってる人間は、スカトロジスト(糞尿愛好家)と呼ばれても仕方ない。そう呼ばれることに誇りを覚えていて、一緒にするなと怒る人もいるかもしれないな。すまん。
さて、以上を踏まえ、比喩として、もう一度言う。多数決は糞だ。少数意見を最終的に「採らない・採れない」ことはもちろんある。それでも、一定の合意を得るための様々な譲歩や協調のための配慮は必要なのであって、それは民主主義のコストなのではなく、民主主義による意思決定を可能な限り正しいものにするために絶対必要な手続きだ。だから、多数決をタテにして少数意見を圧殺する人間は、そもそも民主主義者ではない。数の暴力を振りかざして権力を握る人間は、端的に言って独裁者である。
最初に【矛盾】と言ったのは、「少数意見を尊重する」ことこそが民主主義のルールそのものであり、少数意見を尊重しないのは単なる独裁(あるいは数の暴力)であるにも関わらず、「民主主義のルールを守る」と言ったその口で彼が「少数意見を尊重しない」と述べているからだ。少数意見を尊重しないなら、それは民主主義ではない。彼は法律家であり政治家であるのだから、そんな初歩の初歩をしらないわけがない。
あるいは、彼は「ここで民主主義のルールとは選挙のことを言ってるのだ」と言い逃れるかもしれない。だが、「選挙」とはあくまで「間接民主制」を成立させる手続きの一つに過ぎず、民主主義における意思決定システムの本質とは無関係であることもまた、言うまでもないくらい当たり前のことだ(首長が選挙で通ったからといって、その主張が議会の全体合意もなく自動的に「承認」されるような詐術が成り立つなら、最初から議会は必要ない)…これもまた、政治の初歩の初歩であり、法律家であり政治家である彼が絶対に知らないはずはない前提だ。ではなぜ、彼は平気でこういうことを言うのか?
それは、選挙民のほとんどが「民主主義とは多数決のこと」であり「多数決=選挙のこと」である、と二重に勘違いしていることを知っていてそれを都合良く利用するためだ、としか解釈できない。その二つの勘違いを利用することで、「選挙に通ってしまえば独裁してもよい」という思い込みを形成し、支持者がそれを支持する「空気」を作りだして、反対する良識派(というか当然起こる反対)を封じ込め、本来通るはずのない法案を作成し議会を通過させようとしている…それが、目下彼がせっせとやっていることではないか。そして、そういうところがヒトラーの手口と酷似していると指摘されているところであり、彼に警察権や軍事力、立法権があるかないか、ということが問題なのではない。まあ、個人的には彼は、ヒトラーの尻尾というより劣化矮小版のコイズミジュンイチローだと思っているけれど。
以上を踏まえて、彼の言っていることはシンプルに嘘だと私は考えている。嘘から発生する利益を享受する人間をなんというか。その呼称は各自に判断に任せるが、いずれにせよ、民主主義の破壊者が、口先だけ民主主義を唱えながら権力の位置にあるという現状を、どのように見るか、これは呼称なんかよりも重大な問題だと考えている。
これは、彼個人が善意の人であるか悪意の人であるかという問題ではない。民主主義のシステムそれ自体にそもそも脆弱性があって、その脆弱性がまさに攻撃されており、ウィルスチェッカー(メディア)も、そのウィルスがまさに自己の中から(メディアが創りあげたスターとして)誕生したために有効に機能していない、という状況をどう見るかという問題である。
以上、簡明に反論してみたつもりだが、随分長くなった。反論があれば伺う。
なんでも多数決、なんでも話し合い、って国際連盟みたくするつもりですか?
多くの人に伺いをたてたり多数決をしても、気休めか他人への責任転嫁(=うやむやにして消す)にしかならないことは多いぜ。
気分だけ安全なつもりなら良いのかな?
橋下氏だって、まったく一人で情報を仕入れて方針を策定したり意思決定してるわけじゃないだろ。
それとも、ごまかし市政の平松氏みたいな人にわざわざ拒否権持たせるつもりかな?
世間では現行のまま何も変えないほうがいい場合もたくさんあるけど、
一東京人からしても、大阪市の政治はめちゃくちゃだと思うもん。(もっとも殆どの情報はマスコミ経由だから嘘が入ってるかもしれないけど)
怒りであれ悲しみであれ喜びであれ、そもそも普遍性のない「感情」に「基準」など存在しない。
どんな事柄においても、それをどう捉えるかの基準は個人個人で全く異なるからだ。
カダフィの死が世界一律で悲しまれたり喜ばれたりしている訳ではないように、全ての感情には人間の数だけの背景と判断がある。
だから裁判においても「何人殺したら懲役何年」という決まりなどはない。個人個人の背景や状況で個別判断されるのだ。
故にここでの元増田の「自分の感情は基準に沿ったものか」という問いは、あらゆる意味で虚しい。
ここで元増田が得られるのはせいぜい数値的、人数的な統計だけで、それが元増田の正しさの証左になることはない。
基準のないものに多数決を取ったところで何の証明にもならないからだ。
ここのログを誰かに見せ、俺の感情は正しいと主張したところで、その人に「こいつ下品だな」と思われたらその評価は覆せない。
元増田が件の店に悪感情を抱けば狼藉を働くことも自由だと思っているのなら、誰かが元増田の行動に悪感情を抱いて蔑み否定する自由もまた認めなくてはならないからだ。
元増田は、「俺が裏切られた怒りはちゃぶ台返しに匹敵する」と思っているのだろう。「俺の怒りは、店員がこの食べ物をモップで片付けて綺麗にする手間とその時給、この食べ物の収穫から調理までの全コスト破棄、この惨状を見た相手と周囲の客の不快な気分、そしてそれを起こした自分に与えられる周囲のあらゆるマイナス評価、それら全ての合算よりもなお尊い」という主張だ。
これに対して、「フェア」に徹するならば誰もがこう答えるしかない。
「お前が公正だと思うんならそうなんだろう。お前の中ではな」
同調圧力って言葉ではしょっちゅう使うけどどういう意味だろう。
まずWikipediaで調べてみた。
職場などある特定の集団において意思決定を行う際に、少数意見を有する者に対して暗黙のうちに多数意見に合わせることを強制することを指す。
多数決ではなく、全会一致を求められる場面で発生する。
少数意見を有する者に対して強制的に態度変容を強制する手段はさまざまな方法がある。
・少数意見を有する者に対して物理的に危害を加える旨を通告するような明確な強制
・多数意見に逆らうことに恥の意識を持たせる、少数意見を有する者に対するネガティブ・キャンペーンを行い風評被害を与える
・「一部の足並みの乱れが全体に迷惑をかける」と主張する
・意見の根拠を問い質す
ある特定の集団が集団の内部において異論や反論などの存在を許容せずにある特定の方向に進んでいく事.
多数決で意思決定を行う場では起こらず、全会一致で意思決定を行う状況で発生する。
これに服従の心理とか監獄実験のアレとかもまじってくるのかなー。やだなー。
「斉一性の原理」や「沈黙の螺旋」を抑えるための方法も考えられている。
・「自薦の用心棒」の活躍を止めるためには、反論の動機も根拠も客観的であるとの姿勢を貫かなければならない。
・「沈黙の螺旋」を克服する一つの方法は、議論の中で「悪魔の代弁者」(多数派にあえて反対する者)を用意することである。このような立場をあえて設定する
などが挙げられている。
以下余談。
1つは少数者を排除する方向。これはわかりやすい。
でももう1つあると思う。
多数者にできるだけ過激な言動を取らせる方向が。
そして、どちらかというと、いじめってコッチの方向の圧力が問題じゃないかと思う。
斉一性の原理が働いている時、たぶん、やってる本人たちもおかしいとは思ってる。
だから「何があっても許し合おうね」みたいな雰囲気ができる。
で、それを確認する儀式が行われる。
簡単に言うと、「通常時だったら反社会的な、非道徳的な行為」をやらせる。
「この場での多数側に賛同することはとても重要だから、そのためだったら悪いことをしても許される」となる。
そうやってるうちに、だんだん善悪の感覚が鈍ってくる。常識的に考えることができなくなる。
そこまでしないと「集団がひとつの意見に集約される状態」ってのはできないんだろう。
私の親はとにかく無神経なものいいが目立つ人だった。
子供である私に対してだけならともかく、PTAや近所の人との会話でもいつも無神経な言動ばかりだった。
そのせいか、近所の親や学校の親でも悪評が立ち、地区の子供会でも学校でもよくいじめられた。
そのことを報告しても「あんな常識のない奴らが何をいおうが俺には関係ない」と放置された。
どうしてこんなに無神経なことを言って、しかもそのことをおかしいとおもえないんだろう。
どうしていつも周りと摩擦を起こし続けているのに自分が正しいと信じて疑わないんだろう。
田舎育ち、団塊どまんなか、社畜人生、そういったものが両親の人生にどう影響を与えてるんだろう。
そう思ったら、両親の態度も、いろんな同調圧力の結果なのかもしれない、と思えてきた。
村全体が、ろくに目的もなく一致団結するためには、こういう歪んだ方法が必要なんかもシレンけど。
なんというかほんと気持ち悪いです。
表現の自由、こればかりは、僕は何があっても否定される訳にはいかないものだ、と思っている、だって、こう僕が言うことも否定されてしまうから。
それは身近な例で、たとえば人殺しという表現について規制されてしまえば、現実に人殺しが在るのに人殺しという表現は無くなってしまう。
醜いものが在った時、見て見ぬフリし、聞いて聞かぬフリし、考えて考えぬフリし、思って思わぬフリするかの如くである。
どうなるか?人殺しについて学ぶ機会すら規制されてしまう、ということだ。
愚、とは間違いの歴史の集積である。何も無かった空間で人が不利益を被ってきて、そういう失敗を成功によって打ち勝つために育ててきた定義たちだ。
愚、という価値観について人は大いに学べばいいと思う。なのに、人殺し、という重大な愚に対して考える機会を奪ってしまうのか?
考える機会がなければ、人は愚に対して準備ができなくなる。
無知であれば無理解となり、無理解であれば人はどうするかわからない、どうしていいかわからない。
そうすれば、曇った思索の中で殺人を犯してしまうかもしれない、この可能性を少しでも積極的に減らそう、とその目的を果たすために人は愚を定義してきたのだ。
愚を表現し、表現された愚を知り、理解し、学ぶこと。これは果たして愚か?間違いか?
そうは思わない。人が最大限の悲しみを払って血を流し、受け継いできた愚を消そうとすること、これは相当な愚であると思う、人殺しとどちらが程度の酷い愚か、それはまた別に考える機会を設けるとしてもだ。
何であれ、表現の自由は何処までも許された方がいいものだ、と思っている。
でも、表現をするにしても、TPOくらいをわきまえた表現の実現は必要。だって、名誉棄損は名誉棄損だ。
ん?待てよ?
表現の有無、既存の表現を消せ、という話ではないか、規制し有罪となる表現の枠を考えよう、という話か。
だから、だとして、実生活と相関のない架空のものを描いた表現は無罪で、実生活と相関のある表現は時に有罪となるのだ、と思う。
だいたい、実生活を営むのは人だ、だから法は人の不利益に関するものが多いはずだ、人の肉体を傷付けたいだとか、人のお金を盗んだりだとか。
でもまあ、不法投棄、という罪もあるが、これもよく考えれば人が不利益を被る可能性がある。
なら、実生活と関連しない空想上の表現、これは人に不利益をもたらす可能性はあるだろうか。
これはもしかしたら、なかなか難しい問題なのかもしれない、さかんに議論されているのもこのためなのかもしれない。
こればかりはもうどうにもならない。
表現が好きか嫌いか、表現でどれ程好い思いをしたか、嫌な思いをしたか、このあたりに大きく関与してくる。
表現は人に好い影響も嫌な影響も与える。
殺人の不利益を学び、それを起こすまいと考える場合、そのまま殺人を犯す場合。
おそらく前者が好い影響であり、後者が嫌な影響だ。
こういう二つの場合が存在する中で、これをどう評価するか、といった問題は
知らない方がいいことがある、これに対する意見、姿勢へ繋がる。
知らないことは知らないままにしておいた方が幸福だ、間違えない、と考える人、
出来るだけ多くのものを知ろうとした方が幸福を掴める、間違えない、と考える人、これはもう個人差であり、一概にどうこう言えない。
醜い現実に対する姿勢はそれぞれだ、強いられてはいけない(ただ、生きるということに知るということは内包される気はする、そこから更に主観に基づく言及もできそうだが、またの機会だ)。
感情が理解の先に来るものと、理解が感情の先に来るものがあるように思える、前者は易しいこと、後者は難しいこと、とか一般に言う。
ふむふむと納得してから、アッ!と感情が湧いてくるものと、アッ!と声を上げてからそれを理解できるもの。
だいたい、感情が生まれるのはアッ!という間である、理解だとかそういう言葉で説明できるような何某が追い付ける暇はない。
だからだいたいの場合、感情の方が先に来るような気がするのである。
性、性交は前者である。この場合、何故、は感情の後に付けたされるものだ。
何故、そういうものに興奮するの?という問いは愚問だ、性的欲情の理由はあってないようなものだ
(先に架空表現が人に不利益をもたらす可能性についてもあってないようなものだ、と言及したのを思い出しただろうか)。
感情の存在に善悪はあるか。それはわからないが、仮に消さねばならぬ存在が悪の感情があったと仮定して、感情の生成を阻止し切ることは可能か。
だいたい不可能である。感情よりも先に言語、などという記号を脳内に流し通すことができなければ幾ら特定の感情を否定しても、生成を防げない。
セックスは感情である。その感情の生成を先に防ぐことなど到底できない。
だから、こういうセックスは悪だ、とか言ってもその感情の発露を防ぐことはできない、その実行を防ぐことができても。
だから、何とかという否定されるべきセクシャリティがあったとして、その生成を阻止することは不可能である。
人は知るものと知らないものを持っている、もっと言えばその程度は、よく知っているもの、少し知っているもの、半端に知っているもの、あまり知らないもの、など様々だ。
だとして、知らないものは知らない方がいい、のだろうか、そもそも知らないものなど消してしまえ、害悪の元凶だから罪にしてしまえ、なのか。
この辺が、表現の影響の善悪が、知らない方がいいことがある、に対する姿勢に繋がると述べた理由だ。
しかし、これはもう解釈の違いでどうとでもとれてしまうので、唯一の解決策などない。あるとして政治的に言えば民主主義のお家芸多数決だ。
結局、架空表現が有罪か無罪かに対しての答えは、すごく曖昧で、有罪でも無罪でもあり、有罪でも無罪でもない、これに尽きる。
架空表現は、人の実生活からは断絶された存在であるから、それでどれだけ好い思いしたか嫌な思いしたか、その違いによって向けられる認識も変わる(断絶されているものが認識を変えるといった矛盾がこのセンテンスには含まれてしまっているが、他にどうしても説明がつかなかったためこうした稚拙な便宜しか思い付かない)。
レイプされた人(※例えば女)は、「あんな表現(※例えばレイプポルノ)に影響された人(※例えば男)がいけないんだから、あんな表現がいけないんだわ、無くなってしまえ」と言うかもしれないし、
レイプポルノでオナニーする人(※例えば男)は、「自分たちがこういう表現で愉しんでるだけなんだから、誰にも迷惑は掛けない、掛けていない」と言うかもしれない。
しかし、全ての罪、というものには基準、法則性など無い。有罪だから有罪なのであり、無罪だから無罪なのだ、理屈など無い、多数決だ。
これの、どちらが多く存在するか、単にこれが結論だ。
今現在、地球には何億の人が居て、それで男女はそれぞれ幾ら存在して、という話よりもここは僕の話をしよう。
僕は、架空表現により傷付いた人の肩を持ち、「性暴力に繋がる表現はよせ」と主張し、
片や、架空表現により笑顔になる人の肩を持ち、「実生活に関係はない、芸術は芸術だ、表現の自由は確保されてしかるべき」と主張し、
「ならお前は賛成反対どちらだ」と聞かれれば以上のような答え方をしてくるような平和主義者、事なかれ主義者、そして自称隣人愛好家だ。
(胡散臭い隣人愛好家だ、それにしてもなんと胡散臭いことか。ほんとに隣人を愛しているのか、それで?甚だ疑問は残る、大いに疑問は残る、そしれそれらは僕の好奇心を大いに揺さぶる。扨、饒舌が過ぎた。)
「ネガティブなことは言ってはいけないのか」論争に終止符を打ちたい
http://anond.hatelabo.jp/20110813021554を書いたものです。
たくさんのコメント、ブックマークありがとうございます。
もうちょっと書きたいことがあるので書きます。
ぼくらはけっこう慎重なもんで、
「○○についてどう思う?」という問いかけを目にすると
という考え方に持っていこうとする。
じっさいそれは素晴らしいことだとおもう。
なにか大きな疑問があって、それに対して必ず正解があると考えることのほうが危険なのかもしれない。
もっと優しく、賢く、謙虚になろうと思ったら、自分勝手に結論をゴリ押ししないで
あまねく人と可能な限りとことん話し合うほうがいいのかもしれない。
そういうのをなんて言う?構造主義的?
現在属している共同体の文化や価値観に従って決定することを避けられないから、
ぼくたちはとんでもない誤りを犯している可能性が常にある。
慎重に慎重を重ねても、結論を出すのに「慎重になりすぎる」ということはないのかもしれない。
しかし、ぼくはもう待てない。
というコメントを頂いた。
ぼくは長期的な幸せを望む。
間違った部分とは何か、という疑問についてはもっと考える余地があるかもしれないが、
ぼくたちはおそらくみんながみんな、
なるべく誤魔化しや、
その場しのぎでない、
恒久的、
永続的な幸せを望んでいると思う。
もしかしたら、前回の増田で例に挙げた、世界の多様性を示す例(ニューギニアやアフリカの話)は
「間違った部分」なのかもしれない。根絶すべき人間の悪性なのかもしれない。
よく考えてみてほしい。
ナチスのユダヤ人大量虐殺は「世界の多様性」と言ってしまっていいのだろうか?
9.11の同時多発テロは他人が介入すべきでない文化なのだろうか?
こういう例は枚挙にいとまがない。
うーん。そういうことにYESと言える人はあまりいないような気がする。
基本的人権というシールが、いつからか(先進国の人が考える)全ての人にへばりつくようになった。
このシールを大事にする人は、生きていい人と死んでいい人という区別があるのは認められないと言って、
慎重に慎重を重ねてものを言うなら、
「人を殺してはいけない」という価値観ですら狭い考え方でしかないかもしれないし、
「人を殺してもいいじゃん」という価値観が(先進国で)普通になっていたかもしれない。
そうじゃなくなったのは、人間の理性が悪を打ち破ったからではなくて、たまたまだという気がする。
ぼくは戦争のことなんてなにも知らないけど(体験してないのに知っていると言ってしまうのはウソである気がしてる)
「戦争はいけない」という価値観を受容して(強制されて)生きている。
そんなぼくが「戦争してもいい」という価値観を持つ人のことを理解できるわけがない。
戦争のことを知らないぼくが、戦争はいいとか悪いとか言っても説得力がないが、
少なくともぼくらは、大量虐殺はいけないと言ってもいい。テロはいけないと言ってもいい。
そう考えることしかできないと思う。
さて、間違った部分とはなにか?
ネガティブな発言を減らしていくということは、
間違った部分を正していく行為なのかもしれない。
それが長期的な幸せを作っていくのかもしれない。
ぼくが言いたいのは、
「ネガティブな発言をしてはいけない」という社会的合意が先鋭化されて、
「ネガティブな発言をやめられない人は生きていてはいけない」という主張に変わり、
実際に人が死んでいるかもしれないということだ。
もう一度言うが、ぼくは長期的な幸せを望む。
ネガティブな発言をみんながやめられるということが
少なくともぼくらの共同体では正しいことならば、そうする方が望ましい。
しかし、短期的にはその考え方のせいで人が死んでいるかもしれないということならば
話は別だ。
ぼくらは結局わかりにくいやり方で人を殺しているとおもう。
いちばん救われるべきだった弱いあの人を、ぼくらみんなが団結して殺した。
死因は自殺で、直接手を下したのはその人自身だったとしてもだ。
それはちょっと考え方が突飛すぎるだろうか?
考え過ぎだろうか?自意識過剰だろうか?
そうであるならばそれが一番いい。
ぼくひとりが間違っているのなら、それでいい。
がんばらなければいけない社会、
他人を傷つけるくらいなら自分を責める人がいて
自分が傷つくくらいなら他人を責める人もいる。
かなりの人が閉塞感を覚えているのだけど、その社会を選んだ(選ばされた)のはぼくらである。
民主主義によって、多数決でこの社会が選ばれた。少数派を殺そうという選択だ。
最近はもう少数派と呼べるほど無視できる数ではなくなっている。
弱い人が、
虐げられた人が、
ネガティブな発言をやめられない人がどんどんどんどん増えている。
その問題を優しくて、賢くて、謙虚な人たちがどうすればいいかとうんうん考え込んでいる。
「はてな民」たちはそういう人たちだと思っている。ありがたい。
しかし、あーでもないこーでもないと選択を先延ばしにしている間にも
世界は止まることがない。
つねに何かが選択されて、何かが切り捨てられていく。
切り捨てられていく中に弱い人達が含まれている。
もう待てない。
ぼくは、こんなふうに話し合っていくことが、
いつか世の中全体を変えるだろうと思っていた。
弱者を救済するための装置として、ベーシック・インカムに期待していた。
もう待てない。
長期的な幸せもいいが、まずは人を殺さないでほしい。
がんばって死ぬくらいなら、がんばらないで生きてほしい。
地面をはいつくばって生きるしかない人にとどめを刺さないでほしい。
ぼくらは死ぬために生まれたとでもいうのか?
蛇足かもしれないけど、
資本主義社会というのは、言ってみれば個人の自由を最大限尊重する社会だ。(その代わり平等ではない)
なにしろ死体になってしまうと、自分ではなにもできなくなるからね。
まあ、だから個人の自由を認める気があるなら、
資本主義を持続させようとするなら、一番避けるべきは誰かを殺すことじゃないかと思う。
それで、ぼくは「ネガティブな発言をやめろ」という言い方は誰かを殺すかもしれないと思うし、
解決するためには慎重に考えて、こうやって話し合っていくことが長期的な幸せにつながるのかもしれないけど、
考えれば考えるほどその間に人が死んでいってるかもしれないと思っているのだ。
まず「殺さない」ということだけでも、先になんとか決定できないだろうか。
ネガティブ発言を許せない誰かが狂ってでも、殺すことはやめようと言っているのだから。
その人はもしかしたら有能で、社会をより良くしてくれる救世主かもしれないが、
それでも誰かが死ぬことよりはマシだと思っているのだ。
理由は単純で、ネガティブ発言を許せない人よりも、
ネガティブ発言をやめられない人のほうがすぐ死んでしまいそうな「気がする」からだ
(どちらの側であっても心に余裕がないのかもしれないけど)。
ぼくは常に一番「死」に近そうな人の味方でありたい。
強い人は強い人で楽しんでくれたらいい。
ていうか、ぼくが殺されたくないからこんなこと書くんやけどね。
クズ人間であっても、最低限生きていることくらいは許してほしい。
すいません。言い方を変えます。
ぼくを殺さないでください。
上から目線で「あーしろこーしろ」と言いたくない。
ほんとは殺さないことが人のあるべき姿かどうかなんて、ぼくにもよくわからない。
このままのペースで世界の人が増え続ければ、間違いなくエネルギーや食糧が枯渇するから、
あんまり人は増えないほうがいいという説を読んだことがある。
死んでいく人が増えることはいいことなのかもしれない?
でもぼくは死にたくない。これ以上誰かが死ぬのも見たくない。
「ネガティブ発言」に込められているかもしれないと思ったのだ。それを奪わないでほしい。
もっと前向きな解決法があったらいいなーと思うけど、
「こんなふうにしてみようよ☆(ゝω・)v」
と言われて、
ぼくに必要なのは、一緒に泣いてくれる誰かだ。
後ろ向きなままでは前向きな方法は毒にさえなる。
まずは、死にそうな人を心穏やかにすることが先じゃないのかな。それも死ぬ前に。
これはちょっとさすがに自分でも意味がわからない。書けば書くほど冗長なだけになる。
俺のいう事が正しいんだぜ?って多数決での結果がコレなら、あんたのいう事が多数決になった時はまた別の問題を繰り返すよ。
俺が正しいってんでその通りやって、その正しさが通るなら、世の中はとっくに平和になっています。
景気〜不景気、秩序と混乱、それらを繰り返すのが当たり前。こうやったら正しい世の中になるって考えこそが間違ってる。世の中はそうやって常に間違ってきた。
イヤイヤそうじゃない、というのなら言う事を聞くやつ以外は、全員殺さなきゃいかん。
金の卵だって、田舎にいられないから都会に叩き出された次男三男ばかり。そいつらが最初から幸福だったわけじゃないよ。
いわゆるニートだって、可哀想に言われているが、働かなくても暮らしていけるんだから幸せなもんだよ。
今の若者だって幸せだよ。学校や会社で殴られたりしないんだろ?喰うに困る事はないんだろ?生活の為に売春しなくていいだろ?
ジジイどもなんてどうあったってもうちょっとすれば死ぬ。若者はどうあっても50年は生きる。どう考えても若者の勝ちだよ。これから社会を作って行くのも若者なんだし。
何にしても、みんな当事者になりたいんだなあ。
それも、善なる当事者になりたいんだなあ。
そうあるほうが認められるし、リスク回避ができる。
街宣活動とか宗教とかはただ単にその濃度が高まっただけで同類なんだなあ。
結局多数決の理論なんだろう。多少なりとも歪んでいようが、それが社会なんだろう。
野生動物になりたいとかリヴァイアサンに陥ってみたいなとか考えてしまうのは、ひとえに社会が複雑すぎるからだ。
本当にこの世の中は複雑すぎる。たくさんのものごとが何もしなくても円滑に潤滑に図られていく一方で、その仕組とか成り立ちとか要因といったようなことが酷く難しい。
私にはわかりません。これっぽっちも把握しきれません。端から無理と決めつけているからだけれど、その決め付けを取っ払っても難しい。
為政者とか学者とか論客の皆様方は、素晴らしいものです。どうぞご勝手に侃々諤々と穏健な罵詈雑言を並べては批判し、円滑で潤滑な社会の制度をより高めていってくださいませ。
生きやすいはずなのに生き苦しいのはなぜなの?
私なんぞが参加しなくたって、結局はどうにかこうにか円滑で潤滑な社会はより高度なものへと変貌していくだろうけど、どうしてこうもこんがらがっていくの。
なんなの?カレーをつけると美味しいの?
与党内の締め付けが一応成功したという事だが、締め付けなければならない状態であるという点は、何も変わっていない。公務員労組と民間労組の協同によるデモやストは止まらないし、民意は離れつつある。
緊縮財政と増税による再建が続いている間は、金融支援が続くので、7月中の24億ユーロや8月中の66億ユーロ、あわせて90億ユーロの償還は乗り越えられそうであるが、債務残高の現状維持は、緊縮財政の継続でしかない。
慢性的赤字財政のギリシャにとっては、債務残高を増加させていく以外に、社会保障等を維持することは不可能であり、債務残高が増やせないのであれば、社会保障や公務員の雇用といったコストセクターを削っていくしかない。
必用だからという理由で作っていった制度や増やしていった人員であろうが、その必要性は、投資に対する利益、出費に対する税収増という観点からの考察が無い状態で論じられた必要性であり、やればやるだけ財政赤字が増えて行くという制度や人員であった。
国家が赤字を無視してやらなければならないのは、国防と国内の秩序の維持だけであり、それ以外の事は、経済的な余裕がある場合に行う事であって、その余裕が無い状態であれば、止めていくしかない。なんでもかんでも国家にやらせ、国家に依存するという状態は、自立できない個人主義が、国家という名の家に依存するという失敗状態でしかない。
家制度を否定して個人主義を貫こうとしたら、より大きな国家という名の家に依存するようになったというのは、ギャグにしては情けない話である。しかも、この状態においては、国家に依存している事を誰もが正しい事だと思い込んでしまい、自立した個人であり、他人にとやかく言われる筋合いは無いと、開き直ってしまうという点にある。開き直っているのだから、治しようが無いし、治す必然性を感じていないのである。
慢性的財政赤字の国家に依存している人民が過半数を超えると、多数決では、それをひっくり返せなくなる。民主主義は、国家が何をしてくれるかではなく、国家に対して何ができるかを考え、行動できる個人が過半数を越える状態を維持しなければ、衆愚制に陥る。
国庫から収入を得た人、税金で行われる事業に携わる企業に勤めている人、税金によって補填されている年金を受け取っている人、および、それらの人が世帯主の家族は、選挙権を停止し、被選挙権だけにするというぐらいで、本当は丁度良いのかもしれない。税金を支払い、ナショナルミニマム以外は何も得ていないという国民だけが有権者とならないと、国家に寄生する者が多数派を占めるようになってしまう。
国家社会主義(Nationalsozialistische)を標榜する政党が、熱狂的支持を受けるのは、つまるところ、自分が苦労しなくても他人が苦労してくれるという、被保護者の身分を簡単に手に入れられるという点にある。目先の利益という点では確実であるが、苦労してくれる他人が居なくなった時に、制度そのものが破綻するという欠陥に考えが及ばないという点で、未熟で愚かな選択なのだが、それを自覚していないほど未熟で愚かだから選択してしまうというのが、民主主義が衆愚に陥っている証拠なのかもしれない。
「こんな情勢で正常な精神を保っていられる方が、どうかと思うよ」っていう友人の言葉が何故か耳にこびりついて離れないのだけれど、大学4年間+院浪一年→滑り止め別研究科に行ってしまった僕は将来が怖い。元々身体も精神も弱く、一応それなりには折り合いをつけて二十年間生きてきたつもりだった。けれど、ここ2,3年、辛い。
何が辛いのか良く分からない。自分の無能さも大学入った後から、いや入る前から十二分に理解していたし、自分自身に希望だとかを抱いた覚えは無い。何か取り柄と言えるようなものは無いから、まあせめて大学四年間は良い友達を作ってそれなりに楽しく過ごしていこうって思っていたはずだ。
もしかしたら、院に行こうと思ったのが間違いだったかもしれない。四年過ごした後の皆の進路は8割以上が大学院進学で信念も何もない僕はその流れに乗っかってふわふわと河の流れに身を任せて思考を放棄してただ何となく多数決の理に従っているような感じでそちらへと流れた。
結果、院浪。
日本の経済状況の方がまだマシじゃあないかい?って思える程度の数学力と、そこら辺の学部生よりかは多少マシな程度の専門の知識じゃ、落ちる方が少ないと言われる院に通ることもままならなかった。そうだ、僕はクズだったんだ。
まあ、そん頃にはリーマンショックで悲惨な就活幕開け第一弾、シュウカツイマサラヤッテマニアウノ?友人の言葉や親の言葉。ごめん院浪させて頭下げる。
けれどまあその時でもバイトして生活費稼ぎながら何とか過ごせばいいかって多少は楽観的な思いを抱いていて、その幻想がぶち壊される。生活費稼ぎながらの院試の勉強が、ヤワな甘ったれた精神の僕と身体では耐えられず結局第二志望の所へ。
まあ、それでも。何とか第二志望に受かったから僕は荒縄を買いにホームセンターに行かずには済んだ。けれど、この無駄にした一年間分僕はどう受け止めたらいいどう消化したらしい分からなくて苦しい。
浪人経験者の人は言う、それでも目標目指してきた時期が無駄とは思わない、って。けれど、僕はそこまでの信念を抱いて院を受けた訳じゃないし、研究が向いていないと分かっていながらそちらに行ってしまったのだ。いや、でも僕はも少しだけこのアカデミックな空気に触れていたいってぼんやりと思っていたのは確か。分からない、最初の頃僕は、本当は何を考えて院を受けようと考えたのだろう?
いまさらになって「大多数が進学してたから」なんていう理由であって欲しくなかったと現実に目を背ける僕自身が嫌でたまらない。
就職が怖い、社会が怖い。学部の卒論だって半年はあれだけ死にそうになって、振ればカラカラ鳴るような頭を必死に動かして、何とかギリギリ間に合ったのだ。「学生時代よりよっぽど社会に出てからの方が辛い」っていうけれど、意識なくキーボードを叩いているような毎日が社会に出てから続くようになったら僕は理性を保つ自信はない。
ただ、救いは。何も取り柄のない僕でも、まだ今、生きていられる程度には、社会が寛容であるということ。願わくば、もう少しの間だけ生かせて下さい。それまでには、きっと、ちゃんと自分の足でこの脆い身体と脆い精神で歩くようになりますから。
住民もふざけたこと抜かすな
東京電力の清水正孝社長は22日午後、福島第1原子力発電所事故で福島県富岡町と川内村の住民が避難する同県郡山市内の施設を訪れ、事故後初めて住民らに謝罪した。土下座する清水社長に対し、住民からは「子供の将来はどうなる」「原発を東京へ持って帰れ」などの怒号が相次いだ。
↑上記は日経の記事だが、ふざけんなよ住民も。いままでどれだけの雇用を産んで、どれだけのカネ払ったと思ってるんだ。持って帰れ?まずお前が死にやがれ。
大体だな、「オラが土地」なんて日本人はよく言うがな、所詮50年か100年しか生きない奴が「自分の土地」なんて、なんてエラそうなんだよ。地球規模でみればそんなのはゴミだ。いろいろあったが、多数決で原発建設が決まったんだから、しょうがないだろ。誘致したのは民主党の渡部恒三、okしたのはいまの佐藤雄平知事、それから福島県議会議長の佐藤憲保だろ。さらに、電源開発交付金その他でドンだけ潤ったよ。漁師だって危険な海に出なくてすむようになった。それをなくていきなりそれかよ。
郡山とか、茨城とか、カネもらってない人間が文句言うならわかるし筋も通るよ。もらった奴がガタガタ言うなよ。土地を返せとか、サヨクみたいな事いってるなよ。カネもらってさっさと違うと来いって働けばいいじゃねぇか。ごねてりゃもらえる金増えるとかそう思っている奴もいるだろう。まぁ、実際にそうだけど(笑)。
いやー、報道をそのまんまでしか見れない奴ばっかりなんだろうねぇ。そういう奴に限って、アホか貧乏人。権利ばかり主張して義務も果たさないし根性もない。あーあ、そんな日本人ならいなくていいよ。死ぬほどがんばるチョン公やシナ人の方がいいんじゃないの?
こいつはヘタレなんで、すぐに消すとは思うけど、とりあえず貼っとくよ
とか中立ぶっておきながら原発を論じる奴ってなんなの?
なんで賛否を明確にできないんだろうかね
http://anond.hatelabo.jp/20110416125739
この元増田に限らずブロガーなんかでもちらほら見かけるが、原発事故起きたら転向した勝間のような卑怯さを感じる
「すぐに止めなくていいけど長期的には脱原発」という意見なら「現時点では賛成だが将来は反対」と断言すればいい
「福島第一は津波対策が不十分だったから安全対策を強化すべき」なら「安全対策が不十分な原発は反対だが、もっと対策したら賛成する」と断言すればいい
リスクのある地域とメリットのある地域には大きなずれがあるので全国民の多数決というのはおかしいと感じる
周辺住民が現行で十分だと判断したのなら特に止める必要もない
反対派の候補が大きく票を伸ばすこともなかったので新設どんどんやってもいいくらいだと思う
どこにもそんな印象ねぇよw
「感情論で騒いでいるだけで、説得力のあり実現可能そうな原発の代替案が出てこない。
代替案がでてこないこと自体、消去法で言ったら原発を受け入れざるえない
という印象です。
いちおう言っとくと私は原発容認派であって推進派でない。
現実可能な代替案があるなら、原発を代替案に変えるべきだと思っている。
原発に反対するなら、代替案ださないとどうしようもないよね。
場所を知ってるわけではないが。暇なら俺がまとめたいと思ってたような内容だから多分誰かやってるだろう、程度。
他人任せにせず自分でやればいいよ。
私も同じ事考えて、調べるの面倒になってやめてた。
基本面倒くさがりなので、多分やらない。
私は1980年後半相当の生活はきびしそう。
●ガスタービンに春到来の予感
原発相当の発電効率あるようだし、 シェールガスは100年分の埋蔵量があるとか書いてある。
低コストで発電できる発電手段としては、ガスタービンを上回る解決策が見当たらない。とも。
増田だと原発反対派不利の印象だけど、多分世間的には逆のような気がする。
どうなるんだろうねぇ。