はてなキーワード: 音程とは
ニコニコ動画でさすごく上手い歌い手の方が何人もいるのよ。何であんなに正確にリズムよく歌えるのだろう。
音程が大事だと思ってたので、リズムにはあまり興味ないかったけど、彼らのテンポはかっこいい。
別に歌に限らないけど、作曲とか演奏とか、何が「うまさ」をつくる要因なんだろ。
俺もそこそこカラオケは上手いほうだけど何年やっても、少しずつファルセットとか腹式呼吸とかが多少できるようになっても、根本的なところで遅々として上達しない気がしている。
幼少よりやっていれば違うのかとも思うけど、な。ああ、気持ちよく歌えたらな。誰かとセッションしようぜっていってすぐ歌い始められるくらいならきっと楽しいだろうな。
初音ミクの技術は確かに革新的なものだ、OSで表現するならWin3.1からWin95になったようなものだ。
誰にでも簡単にネットに繋げるようになり、ソフトの互換性が拡大したように
初音ミクは(比較的)簡単に歌わせる事が出来るようになった。
ニコニコ動画で、声優涙目??とか最高!とか書き込んでる者が居るけれど…
そ れ は 本 気 で 言 っ て る の か ?
とちょっと心配になる、耳腐ってんのか?それとも音楽をミクでしか知らないのか?
分かって言ってるだと思うんだけれど…やっぱりPC合成音の域を越えては居ない。
演技は上手いのだけど、「魂が篭ってない!!」と言う感じで炎先生に一括される役所。
カラオケで100点を取るようなものである。
100点を取るのに必須なのは音感とリズム感、決まった音程でリズム通り歌えれば理論上比較的簡単。
ただ、所詮は机上の計算でそれで人の心を動かせるかというと違う
ライブでの生の演奏と歌唱はスピーカー越しでは絶対に感じられない
音を耳で受け取るのではなく、身体で受け取ると言う体験は音楽好きなら一度は体験するべきだ。
例えミクが進化し続け違和感無く歌えるようになっても、その点に関しては絶対に生身には勝てない
音楽を好きな者としてこれだけは断言できる。
初音ミクはWinなんだと思う、だから進化して使い易く高クオリティのモノが出来たとしても
嫌いな人は居るだろうし、否定する人も居ると思う
現代のアーティスト達も音楽技術の粋を集めて修正されCD化している。
リップノイズを消すのは当り前、切ったり貼ったり、音程修正したり、当然にやっている
それは「理想道りに完成された作品」を作る為の肯定であり否定はしない
そして、そういったものを提供できるのはやっぱり人間の歌い手だけだ
ミクの進化が声の変化程度に落ち着き、技術的に進化しなければ本当の意味で「歌手」にはなれない
ミクの流行は一時的なモノから当然なモノになるだろう
だけれど、ミクが生身の歌い手に取って代わる事は絶対に無いと言い切れる
ミクの音楽を愛で、ミクのCDが売買され、ミクのCDが売れていても
そういう人間は歌手のCDを積極的に買う人間では無い、ミーハーなのだろう
流行モノを買って流行モノを聞く人間、制作側的にはそういった購買層も必要だろうが
オチがオチらしく付かなくて困った(汗
ミクは凄いけど、大局的に見ればたいした物では無いよ とただ言いたい
専門ではないのでアバウトですが。
「チャンチャンチャンチャン」は3つの音の間に半音程がないから、割と調性を感じさせない3音で、
コードとの関係からはペンタトニック(5音階:7音階から2音を省いた音階。沖縄音階なんかもそう)の
一部と解釈できると思う。
ペンタトニックはテトラコルドていう3音階が2つ積み上がったものと解釈できて、一般にはアジアっぽさを感じさせる音階と言える。
一応↓のように表記するけど、西洋の音階との一番大きい違いは主音がないことで、中心がコロコロ変わりうる。
Wikiにもあるけど、ドーファ、ソードの間に、互いに完全5度の関係にある2音がどこに入るかで、雰囲気が変わってくる。
例えば、
(1)ドーレbーファーソーラbード、なら雅楽その1(都節?)。
(2)ドーレ ーファーソーラ ード、なら雅楽その2(律とか呂とか?ここらへん曖昧)。
(3)ドーミbーファーソーシbード、ならいわゆるロックのペンタ、民謡音階など。
のように。
このイントロ3音は(便宜上)(3)の一部って感じではないかと。
でも「中国っぽい」と感じる要素で一番大きいのは音色じゃないかなあ。
「初音ミクの魅力がオタクでない僕には分からないので教えて下さい(by araig:net)」
初音ミク批判として受け止められているが、私には肯定論に読めた。「リアルなものを目指しても、所詮リアルであるという点で生身には勝てない。生身とは違う魅力を見出すべきだ。そうすればTB-303やサンプラーのように音楽に革命をもたらす。」という意見に見える。それが現れているのは次のところ
Rolandの往年の名機TB-303とTR-909はアシッドハウス・デトロイトテクノムーブメントを起こした。そして両機とも、発売当初は全くの不人気だった。理由はその出す音がリアリティに欠けていたからだ。しかし、数年後、格安で叩き売りされていた両機を貧乏ミュージシャンが購入し、その音に独特の美を見出して、それまで存在しなかった音楽形態を作り出した。つまり、彼らは発売元の想定外の使用法を見出したわけだ。
サンプラーだってそうだ。もともと楽器音を録音して音程をつけて鍵盤に割り振れば、自分好みの音で演奏が可能になる、という目的で作られたサンプラーに、単音ではなく、フレーズをサンプリングしてループするという技法をミュージシャンたちが発見した。これによってブレイクビーツ・ドラムンベースの革命が起った。ここでもやはり想定外の使用がある。
じゃあ、初音ミクはどうなんだ?現在の盛り上がりは完全に発売元の想定内だ。現行の初音ミクのまだリアルに一歩届かない感じは、届いていないが故に、ある意味完成しているとも言える。さあ、だったらこの初音ミクを使って、どんな想定外の使用法が生まれ、音楽に革命を起すことになるのか、その未来の片鱗ぐらい見せてくれないだろうか。このあたりだけを読めば初音ミクを批判しているという人はいないだろう。むしろ逆に期待しているといえる。
じゃぁ、何を批判しているのか?生身に近いことにしか価値を見出せない「オタク」だ。ID:araignetは生身に近い、リアルなことにまったく価値を見出していない。それとは別の可能性を期待している。しかし「オタク」は生身に近いことにしか価値を見出せない。だから「オタク」を批判している。それは
ところが、初音ミクファンの見ている未来はどうもそっちの方角じゃないらしい。彼らが望むのは合成人声が「よりリアル」なるということだ。以下でよくでている。このエントリを読んだあとだと
「初音ミクの魅力はオタクにしかわからないのか(by Something Orange)」
「初音ミクを手にしたオタク達よ、怯む事はない、世の中を変えるのは君達だ(by Aerodynamik - 航空力学)」
あたりは「初音ミクの価値は『生身』に近いことにしかねーよ」という初音ミク批判にしか見えなくなる。ID:araignetはもっと初音ミクに期待をしている。もう一度引用しておく。
この初音ミクを使って、どんな想定外の使用法が生まれ、音楽に革命を起すことになるのか、その未来の片鱗ぐらい見せてくれないだろうか。これのどこが初音ミク批判なのだろうか?
深読みしすぎだろうか?ただ当該エントリに対する批判はID:araignetのロジックをまったく理解できていないことは確かだ。
はてブにあがったhttp://d.hatena.ne.jp/araignet/20071020/1192811893も読めてないよな。初音ミクに可能性がないといってるんじゃなくて、生身やリアルを目指すことには可能性がないっていってるだけなのにな。
ぽよーんぽよーんぽ(音程表現に苦しんだので省略)
鋸を持ち歩いて浮気相手の首を切ると思ったら突然演奏を始めるソリューションを提案。
私はまだ幼い頃、しばらく合唱と取り組んでいた。部活動とか OB の集いとか、要はクラス合唱に毛の生えたようなものだったけれども、クラス合唱レベルでは体験できないうたやオンガクの世界を垣間見ることができた。
でもって、クラス合唱や授業での合唱かそれ以上のことをやったことあるかたならば必ず経験のある儀式、パート分け。声(音域)が高いからソプラノ(テノール)、声が低いからアルト(ベース)、に分ける、と思っている人が多いのではないだろうか。ほんとうは違う。これは、理系文系の区分けと実によく似ている。
実際、普通の個人の発声できる音域の差というのは、そう大して違うものではない。簡単にいうと、存在するのは「ソプラノ向きの声」と「アルト向きの声」だ。プロを考えてみればわかる、3大テノールの人は、ベースの音域が発声できないか、そんなことはない。充分カバーしている。(ではベースの人が世界レベルのテノールが歌う高音域を出せるのか、というと、それは流石に無理だし、逆も勿論そうだ。しかしそれは飽くまでぎりぎり限界まで追求するプロ同士の場合の話であって、通常の合唱曲のパートぐらいならば余裕だろう。)
しかし現実には、クラス合唱などでもありがちな話として、ほんとうに喉から音が出ない、という物理的な制約からパートチェンジを余儀なくされることはある。「○○ちゃんと一緒のパートじゃないとヤダ」とかいう中二的な物言いなんかあったりして、懐かしい(まさかと思うかもしれないが、女子だけではない、男子でもこういうことを言うのを目にしたことがある)。身体ができあがってなければ正直なところ声はできあがらない。まだまだ未熟…というか、ほとんど取り組んでもいない状態で、これからどう伸びる可能性があるかわからない状態で、パートわけをしなくてはいけないのだ。たまたまそのとき高い音が出しづらいだけかもしれない。たまたま低音が乗っているだけかもしれない。(もちろん、「ハモリパートが好き」とかいう単に音楽的に器用かどうかがパート志望の理由になることもあるし、「主旋律じゃないと歌った気がしない」なんていう(楽して)目立ちたいかどうかだけがその理由になることもある。)ただまあ、ひとつ言えるのは、中学生で変声期も迎えたかという頃になんなんとすれば、多くの人にだいたいその「片鱗」は見えてくるものだ。私は合唱の指導の経験はないが、ときどき街中を歩いていて聞こえてくる喋り声を聴いて「ああ、この人はソプラノかな、高音域の楽声を聴いてみたいなあ」とか「この低音の充実感はアルトだろうな」とか思うことがある。因みにしゃべり声の高低と合唱におけるパートは無関係ということも多く、地声が高くてもパートはアルトの人もいるし、地声がガラガラでやんちゃなのにソプラノの人もいるのだ。(…ただし、私の「妄想」が合っているのかなんてわからないのだけど。)
もうひとつ、現実には「パートバランス」という切実な社会的要求がある。個人の資質をどれだけ正確に見極め、適切なパートに放り込んだとしても、合唱全体が「頭数」としてそのバランスでいいといっているかどうかはまた別問題だ。高々数十人という狭い範囲内(社会)で、これは解決されなければならなくなる。「どっちでもできそうな人」や「正直どっちとも微妙な人」などが、パートを移動することになる。勿論この「パートバランス」に関する要求というのは、歌われる楽曲によってそれぞれ異なる。だから、場合によっては、曲の部分部分で「あなたとあなた、ここだけアルトを手伝ってね」とかいう「手」もたまに使用されたりする。さらに、テノールの人間がアルトを手伝ったり、なんてこともないわけではない。
(「どっちとも微妙な人」(つまり、合唱全体の中では声量的に貢献しないんじゃないかという人)を動かして意味あるのか、と思う人もいるかもしれないが、これがまた合唱というものの不思議なところで、案外意味があったりするのだ。)
でもって実際、歌い始めてみると、「音域」と呼べるほど音程が異なるのは曲の中でもそう多くはなく、ほとんどが 3度 とか 6度程度。1オクターブも違いやしない。通常の流れでは「音域」はほぼ重なっている。単に「役割分担」程度の話。クラス合唱なんかでパート分けをなかよしグループ分けか何かと同一視する病理をあながち一笑に付すこともできない。
楽曲が高度になってゆくと、パート内で「ディビジョン」が頻繁に発生する。通常、合唱団では、ディビジョンした場合のパート分けは決まっており、例えば私はセカンドテナー(テノールの下のほう)だった。男声四部の場合は通常上から 2番目を担当することになる。トップテナーを担当することはあまり無かった。私の同期に私よりも適任がいたからである。ただし楽曲が高度になってゆけばゆくほどこの予め分けた「パート分け」は強い意味を持たなくなってゆく。
個人の資質というところでみると、例えばソプラノだったら高い音を出す練習ばかりしていればいいか、というと、そんなことはない。全音域を練習し、充実を図り、音域を広げる努力を続けることが、ひいては自分の得意な音域を充実させることに繋がる。
こうしてみてゆくと、パート分けにかかるあらゆる事項が「文理分け」と酷似していると言える。まだ習いたてもいいところの数式を目の前に「得意・不得意」を判断し、たまたまあたった先生のその授業で「苦手かどうか」「伸びうるかどうか」を判断し、また判断される。実際は、もっとあとに決めたい。でも、あとでは遅い。いま、決めなくてはならない。そんな中、「どっちつかずの人」とか「正直どっちでも同じようにできそうな人」なんてのも必ず出てくる。周りがどう見ても「こいつは理系だろ」と思うのに、「自分には将来やりたいことがある」と、文系科目をさらりとこなして進学してゆくようなのもいる。
理系だからといって物理数学ばかりやってればいいというものではない。様々な分野を習得し、深めてゆくことにより、ひいては得意分野についても実力の「底上げ」が図れるのである。
合唱はおもしろい。ソロでは決して為し得ない音楽をつくり出すことができるのが、合唱だ。しかし、全体として少々高度なことをやっていこうと思うと、たちどころに構成員の個人個人の資質がその成果へと反映してゆくのだ。この点も文理を基準として見た場合の社会のありようとすさまじく似ているといえよう。
個人で何かやろう、事業でも起こそう、なんて思った人にとって理系文系がどんどん関係なくなってくるのも、そうだ。曲を構成できる音域を全てカバーしなくてはならない。苦手な音域も多少の無理をしつつ広げていかなくてはならないかもしれない。でも、そういうのが向いている人もいる。向いていない人もいる。
いま、その分野で、自分は「鳴って」いるか。「響いて」いるか。これからのひとは、長い目で見て、そのパートを気持ちよく充実して歌いこなせそうか。そのための鍛錬ができそうか。そんなふうに考えてみるのもいいかもしれない。
「その音域が出せるか」ではない。誰だって出せるのだ。「その音域を響かせることができるか」「その音域をよく鳴らせているか」。
音程のずれ自体が分かるのであれば(記事からはそのように読めた。ずれ自体が分からない人は超レア)、音痴は練習次第で克服できると思う。嘘かと思うかもしれないが、マジ。弓場先生の本がおすすめ。タイトルはアレだけど、内容は良くできてる。
Amazon.co.jp: 声美人・歌上手になる奇跡のボイストレーニングBOOK―効果てきめん 世界が認めた『YUBAメソッド』: 本: 弓場 徹
リズム感のトレーニングならインターロックかなぁ。ただ、これは普通にリズムがとれることが前提になっているので、難しいかも。ま、日本人は基本的にリズム感が悪いので、かなりリズムがずれていても許容される気がする。むしろそれが素人のノリだ、みたいな。
高校入ってからは歌のテストは全部サボるという技を手に入れたので、そこまでのトラウマ経験はなくなった。でも就職すると、カラオケの機会が出てくる。友人に付き合ってもらって、当たり障りのない歌を十曲ほどマスターしてそれで凌ぐ今日この頃。新曲?無理無理無理。一曲それなりにまともに歌えるようになるまでに何十時間必要だと思ってるんですか、て感じ。デュエットとか、誘われると困る。でもまあ周りの年齢も上がって、私も年を取って、少しは音痴なのを笑い物に出来るようにはなったと思う(でも音痴なんですーとか言ってても、本当に音痴だと引かれることが多々ある)。
音程も高低もさっぱり分らないので、とにかく歌を覚える時は反復練習。体に覚えこませる。覚える時はメロディと歌詞を別に覚えるのではなくて、メロディごと歌詞を覚える感じ。同じメロディを別の歌詞で歌うということが出来ないので、一番を歌えたからといって二番も歌えるとは限らないのが音痴クオリティ。
音楽のせいではなくて、ステージフライトに近かったのかもしれませんね。そのあたりを汲んでもらえていたら、方向性も変わっていたかもしれなかったのに残念ですね。しかし、他の方向に資質をのばせたのかもしれないとも言えますよね?
確かに上がっていたんでしょうね。ただ、基本的に人前に出ることが好きな人間なので、あれほどの極度の緊張状態に陥るのは音楽の歌の試験(あるいは楽器の試験)限定でした。どんな厳しいプレゼンでも、ここで発表するくらい、一曲歌うことに比べたら全然楽だ、と思ってしまう人間です。
でもって最後の一文がちょっと分らないです。
勉強は得意だったし、好きだった。英語は嫌いでたまらなかったけれど、数学や化学や物理や国語や歴史は大好きだった。運動は得意だし、好きだった。持久力は致命的なまでになかったけれど、それでも総合的には上位5%に入るくらいには出来た。たまにもっと運動部で何かに打ち込んでみればよかったとは思う。絵を描くことも、工作することも、大好きだった。
だけど、音楽が本当に本当に大嫌いだった。
そもそも父と母は私にそれなりの頭とそれなりの運動神経を与えはしてくれたけれど、音楽の才能は全く何一つ与えてくれなかった。
エレクトーンは一年弱で、音符の長さというものが理解できなくて終わった。順番にキーを押す、ということは理解できても、私には規定の長さでキーを押す、ということは出来なかった。手拍子だって、周りを見て、真剣に合わせないとずれる。集中せずに一定のリズムで手を叩くなんて、私にはできない。
歌を歌えば音程がずれる。「そこ高いよ」なんていわれても、どこが高いの低いのか、どうやったら下がるのかがさっぱり分らない。ちゃんと歌っているつもりでもずれる。だから人前で歌を歌うことが苦痛で仕方がない。誰かと一緒に歌うと、自分の声が聞こえなくなって、混乱して、歌えなくなる。でも一人で歌うと、伴奏とどこまでもずれていく。音程も狂っていく。
音楽の時間、歌のテストの時。音程がずれていることを薄々感じながらも必死で歌い終わって、でも何故か伴奏はまだ続いている。その五秒か十秒の空白の時間。私はただ死んでしまいたい、ということだけを考えている。苦痛で溜まらず、涙すら出そうになる。
音楽教師は、私のような人間がいることを理解できない。私が、運動が致命的に出来ない子を見て真面目にしなよ、と憤るように、彼女たちは私を見て、真面目にしなさい、と怒る。真面目にしている。真面目にしているけれど出来ないのだ。歌を歌うことが苦痛で仕方がないのだ。そして彼らは私を笑う。音痴だと。冗談交じりに言われても、私には嘲りにしか思えない。
自信を失えば失うほど、声は小さくなり、伴奏とはずれ、音程は狂っていく。誰が好きでこんな醜態を晒すだろうか。
私が必死で個室でテストを受けたいと申し出ても、彼らはそれを容易く退ける。一曲くらい大したことないでしょ。すぐ終わるんだから歌いなさい。一曲。一分か二分か。それが私には十分にも二十分にも感じられる。
歌のテストをクラス全員の前でさせる教師を、私は心の底から憎む。彼女たちは生徒を晒しものにして楽しいのだろうか。音楽以外に、試験の内容も結果もを衆目に晒す教科が存在するだろうか。
人前で歌を歌うと考えただけで、脂汗が出る。足が震える。息が苦しくなって、逃げ出すことばかり考える。今、熱が出たらいいのに。怪我をしてしまいたい。お腹が痛い。
音楽なんていう教科は全ての教育課程から消えてしまえばいい。音楽教師なんて全員死んでしまえばいい。音楽なんてこの世から消えてしまえばいい。そう、願って止まない。
このエントリーを見て、あみんの「待つわ」が気になって鍵盤で弾いてみた。
今までこの曲は F minor だと頭の中で思いこんでいたのに実は E minor であることが判明した。
元曲のソースなんて持っていないので、頭の中に曲を思い浮かべて音を合わせた。
このことから、
「自分の持つ絶対音感は思っていたよりも正確であること」「それを音階に変換する能力が単に雑であること」
がわかった。今までは単に
「すごく正確なわけではないが絶対音感を持っている」
と思っていたので、これは新たな発見である。頭の中では正確な音程が取れていたみたい。
カラオケに行って原曲キーで伴奏が流れないとすごく気になりませんか?
とりあえず聞いてみる。
ニコニコ動画でよく見られ、またコメント数を稼いでいるもののひとつに「ミュージカル・テニスの王子様」の映像がある。なかでも↓の映像が特に人気のようだ。
http://www.nicovideo.jp/watch?v=ut0UePKu4dlA0
確かにトンデモ漫画の世界を実際の人物がヘアメイクや衣装で二次元に近づき、歌と踊りで再現しているさまはおもしろいし突っ込みたくなる気持ちもわかる。ジャンプ連載漫画だから登場人物がわかる人も比較的多く、だから余計に楽しめるのだろう。
映像の上に直接突っ込みを書き込めるというかたちのせいか、リアルタイムで映っている役者の歌やせりふに対する突っ込みがコメントの大半を占めているが、このミュージカルの主役を演じている役者の歌のシーンになると「ちょwww音痴wwwwwwwwwwwwwwwww」といったコメントに占領される。
実際どう聞いても彼の歌は決して上手くないし、明らかに音程を外れている箇所が複数あるし、せりふも滑舌が悪く聞き取りにくいところが多い。
しかし、彼がその公演の1年半前に交通事故で2週間意識不明の重体に陥り、右半身に後遺症を抱えながらの必死のリハビリを経てその舞台に立ったことを知ってしまうと、どうしても一緒になって音痴wwwwwwwwと笑うことができない。
彼が何のハンデも抱えずに歌っていたとしたら私も一緒になって笑っていたのかもしれないと思うと、音痴wwwwwwwと笑っている人たちより自分のほうがよっぽど先入観にまみれた差別主義者なのだと嫌気が差すが、コメントを入れている大半の人はおそらくこの事実を知らないのだろう。まあ彼がお金をもらって舞台にあがることを自分で選択した以上、そんな背景は考えずに舞台の上のパフォーマンスだけで判断するのがあるべき評価だと思うのだが、それでも彼の顔や体の上に表示される大量の"w"の文字を見ているとなんだか無性に痛々しい気持ちになってきてしまう。