はてなキーワード: 引き起こしとは
WWWは仮想現実ではなくて現実の一部なんですがね。WWWを利用した仮想現実を作るのは構わないけれど、WWW自体はあくまでただのメディアであって。ウェブサイトをホームページと呼ぶことに反対する一番の理由は、「仮想現実に建てた家」と誤解する人が出てくるということ。もしWWWが仮想現実でホームページが家なら、「窓から入らないでください!」は至極真っ当な主張だと思うが……。
あと、散々がいしゅつだけど、開かれているということを忘れている人も多すぎる。前略プロフィールとかで顔、学校名、ねんくみなまえ、携帯のメールアドレスなんかを自ら晒してタバコや万引きの話を書いてvipperの餌食になるあほな中高生が後を絶たないけど、テレビやラジオや新聞で同じことをやる馬鹿はいないよね! いないよね!
で、そういう誤解や無理解を助長しているのはマスコミ。全てはマスコミの陰謀だ。マスコミはWWWの力が大きくなると情報操作ができなくなって困るから、WWWに混乱を引き起こして「WWWは危ない」というイメージを作ろうと必死なのだ。ウェブサイトをホームページと呼んでいるきみはマスコミの片棒を担いでいる!!!!!
深く考えないで捨てるように書く - では誰も結婚しないかというと
上の二つの記事を読んで、結婚ってなんなんだろう、って考えた。
ぶっちゃけていえば、やっぱ結婚って概念の核になるものは、生殖なんだと思う。
出来るだけ優秀な遺伝子をキープしたい女と、
できるだけ多くの女とヤりたいが、いい女なら独占したい男と、
双方の思惑が歩み寄って、1対1で永続的に暮らすというシステムができた。
制度としての結婚とか、男と女の役割分担うんぬんなんてのはどれも、生物としての人間の「生殖」という営みに付随してあとから付いてくるものに過ぎん。
この生殖という「生の営み」の流れに本能的にあたりまえに自然に乗っかるのが、生存競争における「適者」だ。できちゃった結婚なんてのは生き物としてごくまっとうな姿。自然に求め合い、結びついて、子孫を残していく者たちこそが生き残っていく。
二次元キャラとか小説とか、自慰とかで性的欲求をなんとなく解消しちゃって、それで満足とは言わないが満足してなくてもなんとなくこんなもんだと思って生きている独身者たちは、要は生命力が足りんのですよ。遺伝子を後世に残さなくてもいい存在だから、残そうという欲求が起きないようにできている。
生活が便利になって家事が一人でできるようになった、とか、女性でも一人で稼げるようになった、とかいうのは、結婚しない本当の理由じゃない。ぜんぶ後づけのアタマで考えた説明。ありとあらゆる「結婚しない理由」がそろってたって、する人はするんだし。
本当の理由は、個人レベルで言えば、生命力の欠如。結婚したいと自然に思える本能の欠如。
そして、個人にそういう生命力の欠如を引き起こしている、背後の地球レベルの原因がある。増えすぎた人間を減らすべく、一部の人間たちは子孫を残さず死んでいくようにセットされているということだ。もちろんこれは科学的証明なんかできるはずない。信じられない人は信じなくていい。ただ、自然のシステム全体には、増えすぎたものを減らす自己調整能力があるということ。これは真実だ。
さて長々と書いてきたが、これを書いてる俺自身は、自分が生命力のない側の人間だと自覚している。そりゃモテたいとは思うし機会があればセックスもしたいが、そのために努力するという気力はなく、生身の人間はつきあうとなるとわずらわしい非コミュだし、結婚なんてなおさらごめんだ。
俺は子孫を残さず死んでいく、滅び行く種族なのだ。そう自虐しつつも、結婚して肉の子供を作る人たちにはできない、なんらかの使命があるのかもしれないな、という矜持もある。
なんらかの使命・・・そんなもの、ないのかもしれない。
だけど、滅び行く種族も、考える葦であることはできる。今ある自分をこのようにしている地球レベルの原因や人類の未来に思いを馳せた上で、自分が遺伝子を残していくことは清く拒否し、外見などに捕らわれず、優雅にファンタジーの世界に生き、孤独に朽ち果てていく。それもまた、人生じゃないか。
絶滅しちゃうのなら、それはそれでいいんじゃないかな。
絶滅しちゃうような状況を作っちゃったってことなのだから。
言いたいのは、不用な奴を消した方がいいんじゃないかな、ってことであって、不用な奴を生み出すような社会にすればいいとか、不用な奴が無いように社会を構成するべきってことじゃないんだ。
現状不用なんだから、消しちゃった方がいいんじゃないの?ってこと。それに強制じゃなくて、いらない子はいらないってことで悩んでるんだから、そのための救済措置として自殺産業って考えたんだけれど。用なしでも生きたい人は生きるだろうし、心配しなくても常に不用な人間は溢れてるよきっと。
よぼよぼの人のつっかい棒を蹴り倒せ!みたいな言い方になってごめんね。
要は、医者も、かつてのあなたが心身ともに健康な人だったから頼んだのであって、食欲を失うような状況に追い込まれたあなただったら、同じようには頼まないはず。だから、あなたに協力を依頼した医者に、相談してみて欲しいのです。あなたが任務を果たし続けるとしても、精神的な部分のフォローは必要です。そのままだと共倒れですよ。
食欲がなくなって食事を取らなくなった場合、体重が減るだけではありません。免疫が落ち、風邪をひきやすくなったり、膀胱炎や女性の場合は膣炎のような、普段は自浄作用が働いていて罹りにくい病気にかかるようになります。
また、体は少ないエネルギーで生き抜くために、とりあえず直接的に生きることには関係ないホルモンの分泌などから機能制限していきます。心臓の動きも省エネ化されます。それらは自律神経失調や低血圧を引き起こします。
高くつきますが、ゼリー飲料やプリン(ちゃんと卵と生乳を使ったもの)等、のどを通りやすいもので、エネルギーの素をとってください。
あなたを大事に出来るのはあなただけです。誰かの支えになりたくても、肝心の支える側にヒビが入ってたら、いつか二人とも転んでしまうでしょ。大事にしてください。
一人相撲で解決、とありますが、私の意見の本筋に直接関係のない書き方の拙かった部分(しかも、つっこみを受ける前の3月25日21時51分の時点で「追記」に「ひとこまだけの引用でも著作権的に問題ありの場合もあるかもしれない」と記して、フォローはしている)について大勢につっこまれ、それに対して反論していただけなのに、キチガイが勝手に問題を引き起こして勝手に引っ込んだかのように言われるのは心外です。
自分の意見の細部に至るまで完璧な知識を元に万全の反撃を用意していないと、ネットで意見を言うのは難しいですね(まあこれはリアルでも同じかもしれませんが)。
http://anond.hatelabo.jp/20070306151142
もしあなたが「人間は山で狩りをしたり植物を育てて自給自足するのが当然だ」と考えている人なら別に何も言う事は無いのですが。
先進国に暮らす人間は、色々な薬品を摂取したり改造された環境で暮らすことを含めて、それが「本人の気持ちや感情」だと思います。
つまり「精神に作用する薬品で変わった気持ち=ウソの感情」というあなたの感覚は、動物がもつ嫌悪感としてはあり得るので納得できるのですが、文明人としては非論理的だと思います。それはウソの感情ではなく先進国における人類には本物の感情なのです。
重い鬱病は自殺衝動を引き起こしますが、原始的な動物でもストレス過多により自殺衝動が起こるという話も有ります。動物の脳の機能として自殺衝動が有るのです。
http://anond.hatelabo.jp/20070218013048
犯罪と障害を一緒にくっつけて考えるとややこしくなる。
犯罪は障害者だろうと健常者だろうと、それは犯罪だし、罰せられる。
以前の三歳児を突き落とした彼も、障害者で作業所に通うと報道された。
けど、三歳児を落としたことが罰せられるのであって、障害者だから三歳児を突き落としたわけじゃない。
仕事が嫌だからというのは動機だけど、それと障害者だというのは関係あるのだろうか?
本当はある。
けど、それは健常者が提供しているサービスとしての作業所の現状が雇用する障害者にとってメンテナンスまで機能していないことが考えられるし、もし一般雇用された場合でも障害という部分に理解のない集団だとしたら彼がストレスなく生活出来るのだろうか?
ただ、障害者の痴漢行為があるとして、それをしない社会的技能を教えることができる人材をこの社会は作ることができているの?
この日本の社会は多くの日本語を使える健常者に合わせてつくってあって、それ以外の人に合わせて作ってあるわけじゃないのにね。
もしそれを真剣に取り組むことができる世の中なら、健常者の痴漢だって減るんじゃないか。
そして何度もの懇願のすえに男は私たちのクラスから姿を消した。謝罪も何もなく。
そして警戒していたもののやはり尻を触られてしまった。
ここまでは、事実としての経過。
今なら周りの大人の対応や言葉の選び方が悪かったのだとわかる。
だけども、あちら側にまったくの責任がなかったとはどうしても思えない。
その人に合った教育を受けさせなければいけない。
知的障害者は確かに生まれながらに不本意なハンデを背負っている。
これらは筆者の考え。
被害者が語る犯罪は、それはやっぱり体験した状況や加害者の情報が加味される。
被害者の抱える=抱いた問題がそのまま社会全体の問題でなくて、その「事態が起こるまでの加害者の生きて来た背景や環境」とその「事態が起こった後の引き起こした本人と周囲の対応や反応」は分けて考えるべきだ。
私はあなたが受けた行為に対して同情はするし、その行為で知的障害者に対して嫌悪を抱く気持ちも分からなくない。
だけど、"知的障害者"も健常者も合法的に犯罪が許されるわけじゃないし、社会に出るのに不適切な人間だからと隔離されるべきでもない。
Aという人間にBという人間が「それはしてはいけない」と伝えて、それに対して説明する責任は「いけいない」という側にある。
「私にとってそれは気持ち悪いから止めて欲しい。」というのもその説明の一つになるだろう。
当時、怖くて出来なかったのなら仕方ないし、これからそうすればいい。
自分の素直な考えや気持ちを相手に伝えることが私は大事なんだと思うけど。
それでなくても健常者が町中にいる障害者に声をかけるなんてほとんどしない。
健常者が赤の他人の健常者に話しかけることをしないように。
自らコミュケーションを断っておいて、某有名テレビ司会者のように「不適切だから隔離」はない。
それでも通じないなら、通じる人にきちんと伝える方法や上手い介入を考えるのが健常者なのだから。
もしその方法を持たない場所や環境にいたのなら可哀想なことだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20070208152929
それはつまり「そういう同族意識を囲い込む=俺を疎外する文体がキモい」とあなたが思っているということで、囲い込まれている人にとっては心地良いし、そういうトライブを外からおもしろがれる人は「特徴的で興味深い」と思うだろうし。言ってみれば「大阪弁キモい」といっしょで。無意味なレイシズムですね。帰属欲求が強すぎるんじゃ?
つうかさ。
何らかの強烈な感情を引き起こした時点で「作品」として成功だと思うワケね。おれは。それがたとえ「キモい」であっても。分かり易いたとえ話をすると、スプラッタ映画。
つまり「オタはキモいからダメ」って言ってる人は、ホステル観て「存在価値がわからない」とかのたまわった稲垣メンバと同類で。それはつまり「自分もキモいかもしれない」という自分の中の可能性を受け入れられてない幼児性。鏡を認識できてない、したくない。みたいな。あー、つまり結論としては下の方で誰かも言ってたけど「全ての感情は自己責任」ってやつ。
そもそも「キモいキモい」言ってる人が特定の個人に見えてしょうがないんだが。会ったことないとか言い切る前に友人を作ったほうがいいよね。
行動範囲が君の思考を固めてる
「優しいおじさん」ニュースで喋ってる
知ってる全てを話しちゃ駄目みたい
この島の処方箋が見たい
犬が吠えて近づけないよ
報道機関が優しく君を包んでる
あー。ダメだ。批判じゃなくて、タイトルどおりのことが言いたかったのに!
対象がないと書きにくい、というのは修行が足りませんですハイ。
はまち 「こんにちはこんにちは!」
こんなところから世界を変えようなんて本気で考えてたの?」
はまち 「そうだね!最初のうちだけちょっとね…!」
草薙 「で今の気分はどう」
はまち 「特別な気分にはならなかったかな…!><
実はぼく、あなたと記憶を共有した時点ですべてが終わってしまったのかも…!
あとは素子たんがうまくやってくれるだろうっておもってたよ…!!」
はまち 「ごめんね!><
でもすべての情報ってオープンにしちゃったら、“情報”ってものじゃ無くなって、
関係ないとおもってるみんなのこころや、もしかすると悪いこと考えちゃってるだれかのこころの一部になっちゃうのかも…!」
はまち 「うん…!じっさい最後は素子たんまではまちちゃんを演じてたもんね!」
草薙 「たしかにあれは面白い現象だった。それにしてもこれだけの事件を引き起こした最初の動機は何だったの?」
はまち 「きみって世界中で起こる何もかもがインチキに見えちゃうんだろうね…!!><」
はまち 「うん…!でもまぁぼく自身サイトを持っているから、少なからず脆弱性に対する恐怖みたいな物があったのかもしれないけど…!
あれは僕がたまたまネット上で見つけたひとつの脆弱性がきっかけだったんだ!
IPAたんがたぶん誰かに作ってもらったその送信フォームは脆弱性があって、だからIPAたんにメールしたんだ…!」
はまち 「しいて言えばね…!ぼくはぼくが見える世界をみんなに見せるための機械だよ…!」
はまち 「うん…!ぼくはぼくだけがたまたま知りえた脆弱性の確認とお知らせをぼくの使命と錯覚して奔走しちゃったのかも…!><」
草薙 「で見事に玉砕。無垢な媒介者は社会システムの醜悪さに落胆し口を噤んだ」
はまち 「うん…!そしてぼくは消えちゃう媒介者になっちゃったね。
あたかも新作を発表しないことでその存在をデフォルメされちゃう作家たんみたく…!
つまりそれって消えちゃうことでムラ社会のみんながなかよくできるネタってことで、さいごにはムラ社会でもその外でもそんなひといたっけ!ってことになっちゃう…!><」
ネットではもめごとがよくあるってことは知ってたんだけど、実際に目の当たりするまでは信じられなかったよ!
ぼくはそんなこと思ってないのにまるでぼくがそう考えてたみたいにいろんなところで言われちゃってるんだ…!
素子たんだったらあんな現象を何て呼ぶのかおしえて…!」
はまち 「STAND ALONE COMPLEX!!かっこいい!><
もともと、今の社会システムにはそういった現象を引き起こす装置が初めからあるんだね!
なんか残念…!ぼくにはそれが絶望の始まりに感じられてならないけど素子たんはどう…?」
草薙 「さぁなんとも言えないわね。だけど私は情報の並列化の果てに個を取り戻すための一つの可能性を見つけたわ」
はまち 「ちなみにそれってなになに!?」
http://anond.hatelabo.jp/20070128093015
http://anond.hatelabo.jp/20070128032242
国民が選んだ少子化という方向を受け止めて、それでもいろいろうまくいくように制度を考えるのがあんたらの仕事だろうが。
以前の財務大臣である谷垣さんが言っていたが、そうなると消費税率は20%くらい・相続税も大幅に上げないと、おそらく日本はやっていけないだろうと思われる。
むろん、そんな発表を馬鹿正直にしてしまえば、自民は選挙には勝てないので、税務対策としてはだましだまし行くしかない。
『日本の借金時計』を見てると、国としての日本の経済状況は破綻どころか、すでに思いっきり崩壊しまくっている事ということがわかる。
誰が貸してるかも考えないと。9割以上国内から借りてる上に6割は公的部門が貸してる。つまり、日本国の借金のうち6割は政府内部での貸し借りで3割は国内の民間から借りてる。数%ぐらい海外から借りてるが日本が外国に貸してる額のほうが圧倒的に多いので問題ない。夫婦間でカネの貸し借りをした場合、いくら利子が高かろうが額が多かろうが債務と債権の両方を引き継ぐ子供の負担が増えるはずがない。ほぼ国内での貸し借りなのでいくら急激に少子化人口減少が進もうが財政破綻はない。極論を言えば子供がいなくても今この瞬間日本人が地上から一人残らず消え去っても破綻はない。借りた人も貸した人もいなくなるんだから。
国債というのは貸してる側にとっては資産。借金を返せば返すほど預金という資産が減っていく。民間企業が返済しまくるような状況で国まで返しまくってたら国全体としては物凄い勢いで預金がへってしまう。企業や個人がいくら売買をしたところで各口座の預金額が増減しても社会全体では増えたり減ったりすることはない。銀行が誰かに貸したとき発生して、返されればなくなる。
金本位制のころは中央銀行のバランスシートにはゴールドが積み上がっててそれが貨幣量を制約してたが、今では国債になってる。いわば国債本位制。国債残高を減らすのはデフレ不況を引き起こしかねないので、とても危険なこと。
「不都合な真実」という、地球温暖化を描いたドキュメンタリー映画が大変アメリカでウケているそうです。アカデミー賞にもノミネートされ、日本でももう公開中なのですね。
そこで「環境危機をあおってはいけない」で地球温暖化なんて重要じゃないと言っていたビョルン・ロンボルグがこの映画をどう言っているのか気になったので、ちょっと調べてみました。無断翻訳なので匿名ダイアリーに投げてみます。
http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,,1810738,00.html
500億ドルあれば、私たちは地球をもっと良い場所に出来るでしょう。でも地球温暖化対策に使うのはおそらく無駄です。
ある街に1000万ポンドの余分なお金があって、なにか良い目的に使おうと考えていたとします。十のグループが援助を求めてきました。最初のグループはスラム地区の学校のために新しいコンピュータを買うべきだと言っています。次のグループは公園の美化を求めています。それぞれが、達成することでどのような価値が生まれるか、説得力のある案を提案してきました。街の議員たちはどうすべきでしょうか?お金を十に分割して配分するのが一番簡単な答えに思われるかもしれません。しかし、この答えは間違っています。
どのような時でも、幾つかの提案は他の提案より良いものであるはずです。どの提案が最も社会的な価値を生み出すか私達が知っていたならば、それらにお金を回すのが妥当でしょう。
より大きな視点では、各国の政府と国連が莫大な、とは言え限りのある予算を用いて、地球上の問題を減らそうと考えています。一方で彼らはメディアのうつろ気な注意に引き付けられてしまって、間違ったお金の配分を行う傾向にあります。HIV・エイズ、マラリアや栄養不良との戦いに費やされるのは少しだけ。不正や闘争の政治的解決により多くのものが費やされています。残りのお金は地球温暖化を抑え、鳥インフルエンザ対策に取っておかれます。
政治家がみんなに何かを与えられるなら誰も文句は言いません。しかし余分なお金のあった街の例のように、政府や国連にも、どのようにお金を援助するか明確に定めた合理的な枠組みがあった方が良いでしょう。政策立案者にとって、援助候補の並んだリストはレストランの巨大なメニューに似ています。しかし、それは価格や量が書かれていないメニューなのです。
現在、政府が地球温暖化との戦いに加るべきだという、かなりの勢いがあります。元アメリカ副大統領のアル・ゴアは映画製作者に転身し「不都合な真実」というタイトルの映画を作っています。
しかし本当に「不都合な真実」なのは、2004年にデンマークで経済学者たちが示したデモンストレーションです。このデモでは、京都議定書に従った地球温暖化との戦いは、費やすお金ほどの社会的価値を生み出さないことが示されました。四人のノーベル賞受賞者を含むこの経済学者たちはコペンハーゲン・コンセンサスと呼ばれるプロジェクトに参加しています。人類が表面している複数の問題について、解決策の社会的価値を比較するという試みです。そして彼らが答えようとした疑問は「500億円の使い道で、一番世の中を良くする見込みがあるのはなんだろうか?」です。
HIV・エイズ、飢餓、世界紛争、地球温暖化、政治的不正、その他の問題への挑戦について、様々な方法でコストと価値が検討されました。そして特別に任命した研究により、どうすれば政策立案者が一番世の中を良くする見込みがあるかを示した、優先順位付けされた援助先のリスト、「なすべきことリスト」が作成されました。
この結果、経済学者たちは、270億ドルをHIV・エイズ予防に費やすことが、人類にとって最も見込みのある援助であると分かりました。6年で2800万人以上の命を救い、生産力向上を含む巨大な効果を生むでしょう。
微量栄養素を多く含んだ栄養補助食品を提供することが二番目の優先順位になりました。地球上の半分以上の人間が鉄、ヨウ素、亜鉛、ビタミンAの欠乏に苦しんでいます。栄養剤のような安価な解決策は費用対効果がとても高いのです。
三番目は貿易の自由化でした。政治的には難しい決定を必要とするでしょうが、これは著しく小さなコストで世界中、特に発展途上国に、価値を生み出すでしょう。自由貿易により毎年2兆4000億ドルという驚異的なGDPの増加が、先進国においても発展途上国においても等しく生じるはずです。
経済学者たちは次に、化学的に処理された蚊帳でマラリアを防ぐことが巨大な価値を生み出すと見込みました。それからリストに並ぶのは、世界で最も貧困にあえぐ10億人のための農業の研究、公衆衛生の向上、水質管理です。これらへの援助から得られる価値はコストをはるかに上回ります。
HIV・エイズ予防については、費やした1ドルあたり、40ドルの価値が生まれるでしょう。言い換えれば、コンドーム1ドル分は、エイズが蔓延したコミュニティにおいては40ドルの価値になるはずです。
みなさんは、それではなぜ、そうしたコミュニティの人間が自分たちでお金を費やさないのか、と尋ねるかもしれません。答えは通常、そうしたお金がより裕福な国や国連など、他の場所にあるからです。リスクに関する情報を得るのはなかなか難しいのです。また、HIV・エイズの影響は遠くまで広がります。今日の一つの感染が、将来より多くの感染を引き起こし、たくさんの家族やコミュニティを壊滅させるでしょう。しかしながら、先に示した個々の援助案については、こうした将来のコストをほとんど考慮に入れていません。
経済学者たちは京都議定書の実行や、二酸化炭素排出への課税を含む、地球温暖化対策に関する提案についても調査しました。結果は全て悪いものでした。世界の限りある資源を地球温暖化との戦いに費して成功するためには、得られる価値よりも多くのコストを支払うことになるでしょう。そのお金は他のところで使うべきです。
以上がコペンハーゲン・コンセンサスで経済学者たちが「世界が今なすべきことリスト」から抜本的な地球温暖化を外した理由です。
この経済学者たちによって生まれた優先順位付けを、学術的な運動以上のものにしなければなりません。地球上の問題を減らすための決定が高い透明性と合法性を持つためには、政治的運動にならなければなりません。
先月、ジョージタウン大学に、著名な国連大使のグループが彼ら自身の「なすべきことリスト」を考えるために集められました。アメリカ、中国、インド、パキスタンを含む、人類のおよそ半分を代表する国の人達がいました。
彼らはどういう選択だったのでしょう?驚くべきことに、それはコペンハーゲン・コンセンサスで経済学者たちが選んだものと似ていました。彼らは健康、水、教育、飢餓に関する問題への援助に世界が最も優先付けを行うべきだと同意しました。また、おそらくはさらに勇敢なことですが、一番に持ってくるべきではないものについても述べました。そこには金融不安への解決と地球温暖化対策が挙がっていました。
世界の意思決定者のために、地球上の問題に優先付けを行うという概念を議題にしたことは、このプロジェクトにとって重要なステップでした。彼らは運動をさらに先へと進めようとしており、秋にニューヨークで行われる同様の運動では、40人か50人の国連大使が参加するよう望んでいます。しかし結局のところ、優先順位はノーベル賞受賞の経済学者が決めるものでも、国連大使が決めるものでおまりません。社会的な討論と、民主的な決定によるものなのです。
様々な援助を求める声が絶えず増え続け、政治家と有権者がそうした競争に直面する世界において、コペンハーゲン・コンセンサスのプロセスは、ただ声の大きい提案者の援助ではなく、最も価値を生み出す援助へと意思決定者の目が移るよう、助けることが出来ます。
このようになにかを決定するための信念を持った枠組みを提供することは、結局のところ世界の限られた資源をほとんど人類のために費やすことになるかもしれません。この選択肢は無視し難いでしょう。
一晩寝て見直したけど、『それでも「親密フラグ」をコントロールすべき二つの理由』から、タイトル変更。
「べき」とか言っちゃってすんません。
自分語りナシに恋愛話は成立しないってことなんだろうな。個人的経験なんだから。
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『部屋に入るな→じゃああなたとは友達にならない』に納得できないのトラバに。
つまり、親密フラグを3時間くらいかけてたてまくったあげく、朝までセックスをするだけの余裕は十分にあった。
それでも私達は「じゃあちょっとついでに乗っとくか」みたいなセックスはしなかったし、今でも普通の友人だ。
そして、その状況と同じことになっても、世の中のほとんどの男女はセックスしないと私は信じたい。
世の中の男性がみんな「親密フラグを立てたら必ず性的行為に及ぶ」とは、私も思わない。
それでも、「性的な関係を望まないなら「親密なスペース」を守った方がよい」と考える理由は二つある。
その理由を述べる前に、「親密なスペースを許しあう関係」を「私自身が」どう考えているかを述べておきたい。 |
たしかにほとんどはしないで終るだろうが、男に全くその気がなかったとは思わない方がよい。男はちょっとした事でムラっとくる。ただ、それは普通表に出さないし、当然手も出さないだけだ。(中略)
ただ、性欲旺盛な二十歳頃・深夜・頭脳労働による疲れ・達成感によるナチュラルハイは理性を弱める。ちょっと事故が起こればたちまち手を出しかねん。まあ、拒否されて我にかえって落ち込むのがおちだろうが。
せっかく築いてきた人間関係の中で「あなたがそんな人だとは思わなかった」なんて台詞を吐かなきゃならん状況というのは、男にとっても女にとっても不幸だと思う。良好な人間関係を築いてきたにもかかわらず、上記のような事故が起これば、女だけでなく男だって結構へこむと思うのだ。
部屋にあがりさえしなければ、触りさえしなければ、事故的に仕掛けられた「親密フラグ」の駆け引きに乗りさえしなければ、そこにいるその男をそのまま、その男が見せたいとおりのままで、人間関係を続けることができる。「二人きりになったら襲う男かどうか」なんて、男だって事が起こる直前までわかるわけがないと思うのだ。
中には、割合は少ないだろうが「とにかく一打」という男だっている。こういう男はぱっと見ではホントにわからない。結構長い付き合いでも、同級生とか職場の同僚程度だとホントにわからない(それでわかるようでは打てないらしい/そういう奴は打つこと自体が実はmissing piece探しだったりと無意識に人生掛けてることが結構多いので、タカをくくってるとホントにあっという間に打たれる)。偶発的にであっても性的関係に移行してしまった時の自分への破壊力(2.を参照)を思うと、「自意識過剰な女」と嘲笑されることぐらい、全くかまわないと思うのだ。
「親密なスペース」を侵害されたら、人は多かれ少なかれアンコントロールになってしまうだろうと思うのだ。
「親密なスペース」を侵害しあえば、どうしたって感情の開放を伴う。さらに偶発的に性的関係を持ってしまったりしたら、(少なくとも一定期間は)人間的に尊敬とか信頼とかいうことに全く関係なく、寝てもさめてもそいつの顔がちらついたり、「好きなんかじゃない、ただ寝ただけよ」とか誰に言うでもない言い訳したくなったり、嫉妬心や独占欲に苛まれて夜中に「今すぐ来て!」とかメールしたくなったり、いきなり鍋いっぱいのカレーを煮込みたくなったり、満たされない気持ちと人類補完計画について増田に語りかけたくなったり、タバコの煙が立ち昇っていくのを見つめながら急に田舎の話を始めたくなったりして、まあ自分の「面白いけど恥ずかしいところ」がだだ漏れになることが容易に予測される。性的関係に至らない「親密フラグ」の段階であっても、そういう傾向は顕著になる。私は、女って言うか人間って、そういうもんだという認識がある。
「肉体>精神」の判断基準も、精神は個体差や気分の差があって定量的記述に還元できないけれど肉体はある程度それができるので、肉体の社会的コントロールが達成できれば、精神はたとえどんな状態に陥っても必然的に肉体という外枠からはみ出ることができない、というフールプルーフな安全保障の発想だと思う。
「毅然と親密なスペースを守れ」という意見の本質は、まさにこの文章に代弁してもらっていると言ってもいい。
もちろん、そういう人を私は止めない。
ただ、そういう不安定な状態の自分が引き起こした様々なことは、もちろん自分で引き受けないといけない。
私自身は、友達とそういうアンコントロールなやり取りすること自体の必要性を感じないし、もし男友達とそれをやり始めたら、(出来ればセックスなしで)を守る自信がぜんぜんない。
私は「友情」((ここでは「性的関係を伴わないが、お互いに尊重しあい、信頼で結ばれている人間関係」とする。昼ごはんを一緒に、ぐらいの人は含まない))の元に「missing piece探し」をやろうとは思わないのだ。恋人と結ぶ親密な関係は、友情に比べたら「missing piece探し」に近いものがあるかもしれないが、それだって何もかもをかぶせすぎたら、大切な人をつぶしてしまうかもしれない。誰も、自分にはなれないのだから。
自分にあるのと同様に、相手にも人生がある。自分はできるだけ自分で探した方が、平静の心に到りやすいのではないか、と、これは個人的な見解であるけれども。
これは女子に対する親の説教だな。
大人になったら恋愛にセックスはつきものなの。恋愛(=セックス)が絡んだら男の子だけじゃなく「自分も」コントロール効かなくなるってことを自覚しなさい。王子様はいないんだから、寂しいのは自分で何とかしなさい。悪いこと言わないから恋愛(=セックス)するのは一人にしておきなさい。友達って言いたいなら「親密フラグ」立てちゃダメ。わかった?
それで「べき」とか言ったのね。ひとり納得。
私は何もアルファブロガーを賞賛したいわけではない。任意の記事に対する個人の評価は相対的であろう。ひとえに「アルファ」と言っても、あらゆる人間に対してアルファであるものと、少数の志を同じくする人間に対してアルファであるものとがあろう。その一方で、多くの人間に注目される記事を継続的に書くブロガーがいて、そういう人々を、ある人はアルファブロガーと呼ぶだけのことである。
これは、「私にとって」ということである。私と似たような嗜好を持っている人が複数いるとすれば、「私たちにとって」と言えるかもしれない。そして、ある種の「隙のある」記事の内容に関して言えば、多くのブログ閲覧者が妄念を感じるかもしれない。
「妄念」の判断基準として以下を考えている。
ある読者がある記事を読んだときに、
だから私は、RSSリーダーで(私が私にとっての)アルファブロガーと認めたブロガーの記事を購読している。さらに、セレンディピティ(思いがけないものを偶然に発見すること)を期待してはてなブックマークのトップページを利用するし、はてなブックマークの特定のタグから生成されるフィードをRSSリーダーに登録している。はてなブックマークはトップページ閲覧以外にも柔軟な活用が期待される。「はてなブックマークなど」と言っては、はてなブックマークがかわいそうである。
そのような信仰が流布しているのは、あなたの信念の世界においてだけではないのだろうか。ソーシャルブックマークを通じて、目立つブログ(もしくはブログの記事)と目立たないブログがある。ただし、それらの間にヒエラルキーがあるか否かは、私には判断できない。しかし、彼らが特定の情報流通におけるハブにはなっていると思う。