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2008-09-02

公明党創価学会基礎知識2008

日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。

1ページ目 【創価学会の成立と発展】

創価学会の成立と迫害

創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。

しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在日蓮正宗創価学会関係はありません)。

そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。

戦時中宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神指導者として処刑されてしまうわけです。

いずれにせよ、政治実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。

このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。

創価学会の発展

戦後民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会ナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。

戸田は敗戦後学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。

折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世折伏」を実行するよう呼び掛けます。

とほうもないように見えた計画でしたが、戸田1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。

強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本人口構造の転換に求めることができます。

農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。

そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。

学会の国政進出はじまる

こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長戸田はまず1955年統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。

これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。

2ページ目 【公明党の結党と田中派への接近】

社会的地位向上を狙った国政進出?

1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。

折しも創価学会は特に左翼革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会学会員社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。

いろいろ言われているように、戸田国立戒壇、要するに僧侶日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。

公明党誕生池田会長の就任

しかし戸田学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。

この間、会長池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。

この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さ頭角を現わすことになったのです。池田会長就任は実に32歳の時です。

そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。

こうして創価学会公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。

言論弾圧事件」と自民への接近

公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。

しかし1969年公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。

このとき活躍したのが、当時自民党幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。

自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。

さて、田中角栄は地方への「利益誘導政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。

もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派公明党学会関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。

また1972年には、竹入義勝・公明党委員長首相となった田中の依頼を受けて訪中田中訪中日中国交正常化の地ならしを行っています。

学会公明党の「政教分離

さて、「事件」でバッシングされた公明党創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙議席を半数近くまで落とします。

もちろん公明党創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。

また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。

学会共産党支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中ファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家松本清張で、彼は池田宮本顕治共産党委員長を引き合わせ、この学会共産党の「同盟」を実現させたのでした。

もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党学会なしには存在し得なかったからかもしれません。

また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。

結局、これで公明党イメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。

結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党顧問弁護士宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。

3ページ目 【自公連立への道と創価学会

公明党与党

新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。

1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。

1992 年、公明党民社党社会党議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。

また1980年代から地方議会でも公明党都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。

公明党与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄逮捕される国会議員も出てしまったといえます。

もっともこの不祥事には創価学会学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党国会勢力は1989年参院選では前回比1議席減、1990年衆院選では11議席減となっています。

公明党の連立参加と「新進党参加」

1993 年、総選挙自民党過半数割れすると、公明党は非自民・非共産連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。

その後、公明党小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員参議院議員1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。

結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。

その後、旧公明党衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在公明党誕生することになります。

公明党誕生自公連立

新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。

こうして小渕内閣(小渕首相田中派を源流)のとき、公明党自民党と本格的に連携地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上自公連立政権スタートすることになります。

そんななかで小泉政権が発足。公明党小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。

しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。

また先のページで述べた「地方:自民都心公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。

これからの創価学会公明党

微妙になりはじめた自公連立公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。

この間、創価学会会長だった池田1979年日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在会長原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌新聞などをみても明らかです。

政教分離」をした今、創価学会公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員公明党公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。

ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会壮年部長読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。

公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会公明党なしでもやっていけるが、公明党創価学会なしにはやっていけないわけですから。

さて2008年池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。

いずれにせよ現在創価学会組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。

人名について一部敬称略とさせていただきました。

参考書籍サイト

SOKAnet:創価学会公式ホームページ http://www.sokanet.jp/sg/sn/index.html

2008-06-02

http://anond.hatelabo.jp/20080531220950

下らねえ奴。

この世がその叔父とやら(どうせ作り話で架空の人物だろうが)みたいなクソ野郎ばっかりだったら今頃、自動車飛行機高層ビル存在しなかっただろうな。

貴様が「アニメとか漫画とかゲーム」の価値が分からないからといって「県議会議員」なんてほどほどのエスタブリッシュメント言葉を託してんじゃねえよ。

地方政治家のおっちゃん達だって決してそんな器の小さな奴らじゃねえ。貴様みたいな下衆野郎と違ってな。貴様の小さな脳みそに合わせて矮小化されては彼等もかわいそうだ。

2007-08-29

賭けゴルフをしていたあの人のこと

巷では、週刊新潮さくらパパ報道が話題になっている?ようですが、みなさん、おぼえていますか? えひめ丸事件(2001年2月10日)の時に、事件発生の報告を受けても森喜朗総理が賭けゴルフを続けていたことを。

当時、国民は森総理を強く批判していましたが、森喜朗総理は、議員辞職どころか、総理・総裁も辞職せず、謝罪さえもはっきりとせず、記者に向かって

 

「掛け金はチョコレート程度だ」

「あなた、ゴルフときチョコレート賭けない?」

と言っていました。

 

しかも国民世論の批判が大きくなり、問題が広がったとたん、記者に説明していた事実をひるがえし、「賭けていない」と言い出し、開き直る始末。

当時、国民はみんな森総理に呆れ、事件をきっかけに低かった支持率がさらに下がったのでした。

 

こんな税金セレブ安倍晋三内閣総理大臣の自称後見人とは笑わせます。

いや、こんな税金セレブだからこそ安倍晋三内閣総理大臣の後見人なのかもしれません。

 

事実を報告し、問題となる事実部分については最終的に謝罪し、党の処分を受け入れる横峰氏。対して自由民主党の最高指導者だった方は、賭けゴルフ開き直り、側近はこぞってかばいあう。

対応の違いは明白でしょう。

 

ちなみに、えひめ丸事件当時、森総理に緊急事態の連絡対応責任があったダメダメな副官房副長官の名前は安倍晋三氏。現内閣総理大臣です。

官房長官当時、安倍氏は森総理がゴルフを続けていた事実について国会でこう説明していました。

 

http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/001815120010216007.htm

松野(頼)委員 

《略》

ちょっと腑に落ちないところがもう一つありまして、本当はこのとき、総理に連絡が入って、それでも総理はゴルフを続けられていたんじゃないかという新聞記事が実はありました。これについてちょっとお伺いしたいと思います。

安倍内閣官房副長官 

《略》

情報を受けやすい場所にとどまったということでございます。

 

モノは言いようですね。この言い訳会社遅刻した時の言い訳に使え…るわけがありません。こんな説明で国民が納得すると思っているのだとしたら、国民も随分とナメられたものです。

 

首相進退>ゴルフでかけたのは「チョコレート」釈明あいまい毎日新聞

 「もう、(記者クラブは閉鎖!」。森喜朗首相のかけゴルフが発覚した21日、定例会見を終えて執務室に向かう福田康夫官房長官は声を荒らげた。会見では森首相ゴルフに質問が集中した。森首相自身の釈明もあいまいで、首相を支える官邸スタッフもいら立ち、対応も迷走している。

 森首相はこの日朝、「かけゴルフなんかするはずないでしょう」と否定した。しかし記者から事務所チョコレート(少額の金額)程度のものをやり取りすることもある、と説明しているが」とただされると、「一般的にはね」と言葉を濁した。

 定例会見に臨んだ福田官房長官は「見たことないから、言いようがない」と断わった上で、現金ではなく、文字どおりチョコレートをやり取りするゴルフが一般的に行われているなどと説明した。「調査しないのか」と追及されると「いいんじゃないですか。チョコレートなんだから」。

 「精算でゴルフ場をたつのが遅れたのではという話もあるが」と畳み掛けられると「失礼なことは言わないでください。そんなチョコレートくらいで。総理は人に対する心遣いがあり、心根のやさしい人ですよ」と語気を強めた。

 自民党衆院議員秘書によると、永田町では「握り」と呼ばれるかけゴルフの場合、「チョコレート」は1打あたりの金の単位隠語として使われるのが一般的だ。ラフに打ち込んだ場合は「スズメ」、池に落とした時は「カメ」などと呼ばれて、加算される。この秘書は「チョコレートそのもののやり取りは、小さな子供を持つ親ならあり得るのかもしれないが、通常は考えられない。1打当たりのレートもかなり高いのではないか」と話している。

 森首相行動をめぐっては、地方政治のトップである知事からもさまざまな反応が出ている。

 宮城県浅野史郎知事は「批判するのは簡単なんだが」と前置きしながら、「危機管理は身近な話題。第1報が来てからの対応は非常に重要だと改めて感じた。反射神経の問題で他山の石と受け止めている。私はゴルフはやらないが、(趣味の)ジョギング中だったら、必要があれば文字通りそのまま駆け付ける」と語った。

 高知県橋本大二郎知事は「森首相に早い段階できちんとした情報がくれば、対応は違ったのでは。国民の多くが『何をしているんだ』と考える感情はよく分かる。早い段階で『申し訳なかった』と一言謝れば、多くの方は理解できたのではないか」と分析する。トップの資質については「どんな批判もきちんと受け止め、反論すべきは反論する。総理は知事と違って国民、県民の声を直接聞く機会がない。国民がどう感じているのか、情報収集は常に必要だ」と語る。

 「私の立場で判断すれば、ただちに官邸に戻っていたと思う」というのは三重県北川正恭知事。「現在は混乱期。混乱、ピンチをチャンスととらえ、実行することが必要と思う。実行できる、決断のできる人がトップに立った方がいい」と資質論を展開した。

 埼玉県の土屋義彦知事(全国知事会会長)は、定例会見で「(自分が首相だったら)ゴルフ場自衛隊のヘリの出動を要請して官邸に戻った」と語る。

 定例会見で「森さんにはアイムソーリとしか言いようがない」とコメントした東京都石原慎太郎知事。19日に羽田空港内で開いた都民との集会で「(森首相は)いつまでもつかなと思ったけれど、そんなこと言わずに、辞めるならさっさと辞めるつもりで、ぱっぱと他の良いことやりゃあ、いいじゃねえかな。そうすりゃ、支持率も上がるよ」と言った。

信濃毎日新聞 社説=森政権 これでは重責を担えない 2/18

 政治民意の上に成り立つ。最高責任者である森喜朗首相は、その自覚や緊張感を欠いた言動を続け、多くの人々の思いと離れたところにいる。次々と問題を噴出させる首相自身と政権に、国政のかじ取りをゆだねるのは難しい。

《略》

 ここに至ってもなお、変わらない。高校実習船と米潜水艦衝突事故の連絡があったにもかかわらず、ゴルフを続ける感覚は、国民の受けとめとは異なる。

 政治と「カネ」の不明朗な関係は、不信を深める。政治家が最も戒めねばならない事柄である。ゴルフ場会員権を事実上、無償で譲り受けたり、利用しているのは、認識の低さを表す。

 どちらの問題でも、率直な反省が聞かれない。政策の是非より前に、首相の資質に疑念が出るようではやり切れない。

 与党、とりわけ森首相を担ぐ自民党責任は重い。もともと、小渕恵三首相が急病になった際に、一部幹部だけで後継に固めた不透明さを引きずる。

 党内にもかねて、リーダーとしての適格性に対する批判があるのに、改めさせることができずにいる。所属派閥の幹部が協議して、首相ゴルフ宴会の自粛を求めるほどの事態だ。次の候補がいないから、そのまま任せるという理由であれば、政権政党としての役割のみならず、自民党そのものの責任能力が疑われるのは当然である。

《略》

 大半の国民の信頼を失っている政権では乗り切れまい。政治根本から立て直すために、首相自民党政権の行方について、厳しく判断する時である。

2007-04-24

企画オープンソース

(考えを深く煮詰めていない点と日本語のつたなさはご容赦頂きたい)

ソフトウェアではなく、「企画」のオープンソースコミュニティを作りたい。

イメージsourceforge.netの「企画」版。

WEB2.0時代と言われる現在でも、オープンソース文化はネットの世界に留まっている。

この素晴らしい文化をリアルにも広げたい!広げたら、きっとすごいことになるはず!

オープンソースの利点は大きく言って、

1.生産性

2.人材(共感)獲得の容易さ

3.利他精神

にあるのではないかと個人的に思っている。

これはNPONGO的なプロジェクトには最適ではないか?

世界的・国家的・地域的・・・、どんなレベルにも目的にも通用するのでは?

個人のアイディアを立ち上げ段階でサポートするような仕組み。

プロジェクトの運営、仲間集めや資金集めを容易にする仕組み。

これがあれば、誰でもアイディアひとつで世界を変えられるのでは?

例えば、先の統一地方選最中に、選挙の手伝いをしながら考えた妄想

R30党」という若い人限定の仮想政党ネット上に作り、仮想党員(10-39歳)とサポーター(40歳以上の人)を募集。

政策の討議・立案をし、実際に民間で考えた国政・地方政治マニフェストを策定。

もし、ムーブメントが起きれば、実際の政治団体として届け出て、選挙に繰り出す。

年齢制限のある政党として、若い政治家を送り出して、40歳過ぎたら除名し、既存の政党に所属してもらう。

NPOとして永世中立でネットで策定した民間の意見リアルに反映させる仕組み。

この立ち上げがオープンソースで出来たら、とこれまた妄想したのでした。

もっと考えを煮詰めたいので、もし少しでもピンときたら言及してください。

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