はてなキーワード: 進化論とは
「過去の栄光にすがるな」とは言え、回想に浸ってみる。ターゲットが未だ定まっていないからだ。
これは何かの自己啓発本に書いてあった「謎解きのヒントは自分の過去に必ず在る」という物で、
「先ずは自分を見つめ直せ」といったごく在り来たりなフレーズに耳にタコが出来そうになる物のフロイト的にもオールオッケー。
それがどんなに下らない物であっても一通り書き下すと良い。しかし後で必ず捨てろ。生ゴミは持ち歩かない方が身の為だ。
「大文字の歴史」と「個人史」の間には必ず偏差が在る。否、「大文字の歴史」は宗教と同様「何者かに決められた個人史」の可能性も否めず、
大文字と小文字の間に偏差が在る事は誰にも簡単に理解出来るが、しかしそのバリューは誰にも計れない。
話を戻そう。
2つの「大文字の歴史」ここは手軽にウィキペディアの写しを並べ、しばし考えた後、“あえて”片方を逆にした物が前回だ。
これは「進化論」あるいは「疑似科学的なハッタリ」とも言えるカマしだが、進化論からすれば「進化」と「退行」は同じ物である。
(勘ぐるに「大人」とは「退行を良しとしないが、進化も止めた人」と読めるが、それは行き過ぎだろう。)
別にどう読んで頂いても構わないが、「この2つに相当性が見受けられる」という結論に落とし込まざるを得なかった。
これはロマンチストに依る完全なる空想の産物であるが、決定的事実に見せかけるには十分であったと思う。
結局個人史という物は捏造も修正も幾らでも可能だが、大文字の歴史は簡単には曲がらない。そこを上手く誤摩化して撹乱させた。
ワタシの偏愛する文章の大半は「どの様にでも読めるが、結局どの様に読んでも同じ」「自由かつ不自由」という不気味な拘束具だったりする。
〜T.H.
http://anond.hatelabo.jp/20091005002132
そっから生物多様性、進化論、五界説、超三界説、すこし分子進化における中立説と自然選択説の対立の話を紹介して、「君はどっちを信じる?」って宿題を出してその日はそれまで。
で、次は会食でもしながら進化論の話から育種学の話。
集団遺伝から近交化の話につなげて遺伝病の話にもってく。
遺伝病の話からセントラルドグマの紹介。
んで、そっからタンパク質の話にいくんだけど、代謝マップにいくよりは生理学につなげたほうがいいかなっと。
で、ひとしきり畑違いにも楽しめる医学生理学のおもしろそうな話を紹介したところで、PCRとシーケンスの原理とかを説明したり。
あんま化学にこだわらないほうがいいと思った。
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/world/europe/090924/erp0909241703004-n1.htm
いつも思うんだけど、社会進化論的な誤認しているひとって、ほんと多いよな。
適者生存という事実が存在すると言うことと、個別の適者生存がよいことか、それにどう関与すべきかってことは、全然、別の問題なんだよな。
たしかに、生態学的なエコシステムの場合は、人間が関与しない状態をもって、「正しい」と定義しても、まあ、大過ないかもしれない。
(もっとも、これだって、厳密にはぜんぜんそうはいえないのだが)
自然状態では淘汰されるような種であるということは、それが保護されるべきかどうか、という論点について、少なくともまったく決定的ではない。
だから、生物学的には正論とか書いちゃう人は、根本的に、事実問題とべき論を混同してしまってるんだよな。
まあ、パンダに保護のリソースを優先的にまわすのがいいかどうか、というのは、それはそれとして議論があっていいが。
あと、種の保護は、かわいいとか、愛護とかじゃなくて、絶滅したら取り返しがつかない、というのと、エコロジカルな意味で果たしている役割というのと、それに関連して、種の多様性を環境の変動リスクに対して担保しておく必要性、ということがある。
非常に狭い科学観ですな。
そういう人は、
短絡的に思ってしまう。
そういう人は、
「そもそも科学とは何ぞや」とも、
「反証可能性とは何ぞや」とも考えたことがないのではないか。
手順に従う限り、誰がやっても、いつも同じ結果になるから、
反証可能になるということを考えたことがないのだろうか。
そして、単純に
「宗教と同じである」とか、
科学のもつ一面だけを見て、語ろうとする。
それこそが非科学的態度であるということに気がつかない。
http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20090918/1253283595
何らかの成果が出た時、その成果を得る為にとった行動が努力として規定される。つまり、「成果が出た」時点から遡って、「努力をした」という過去が形成されるのだ。故に努力は必ず報われる
何らかの生物種が現に生存している時(=絶滅していない時)、生存する為に有利と考えられる形質が適応として規定される。つまり「生存している」時点から遡って、「適応した」という過去が形成されるのだ。故に適応した種は必ず生存している
http://www.idea-moo.net/chi-taiken/ono08122801.html
自然選択説は循環論法で無意味だと批判する者がいる。「自然選択で生き残るのは誰だ?→適者だ」、「適者とは誰か?→自然選択で生き残る者のことだ」自然選択説はこういう循環論法だと批判者は主張する。だがこれは全くの誤解に過ぎない。自然選択説は、変異体と原型との間で環境への適応度に差があるということを指摘する。大多数の事例で突然変異は有害で変異体は適応度が低く生き残ることはない。しかし、ごく僅かではあるが有利な突然変異が生じそれが生き残り新種となることがある。また(「種の起源」では明記されていないが)中立な変異体が確率的浮動で生き残り新種となることもある。適応度の差は環境により異なり、任意の突然変異を一意的に有利か不利か中立か決めることはできない。耐性菌は薬剤が存在しない環境では通常は不利な変異体であり増えることはない。しかし薬剤が存在する環境では圧倒的に有利な立場を得て増殖し新種となる。こうして環境の多様性と連動して種の多様性が拡大する。このようにダーウィンの進化論を正しく理解すれば、それが無意味な循環論法だという批判は全くの的外れであることは明白だ。またダーウィン説が種の多様性を説明する上で極めて有効、いや、唯一の科学的な理論的枠組みであることも明らかになる。
最近見た素晴らしい「努力」の定義 - インターネットください
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/RPM/20090917/doryoku
stellaluna 「努力します」「善処します」という政治家の言い訳がこれで使えなくなるのならいい定義か。
Zephyrs コミュニケーション, ネタ, 社会, 考察, 言葉, これはすごい 目から鱗とはこの事か……
caraldo_k コミュニケーション, 読み物 俺は納得
kei_ex 正しい。けど、これを知っても自分にプラスになるかというと微妙だ…w
その成功を得る為にとった行動が努力と呼ばれる。
努力とは苦労する事ではない。
全然苦労してなくても成功すれば努力した事になるし、
凄く苦労しても成功しなければ努力が足りない事になる。
「努力すれば成功するとは限らないが、成功する人はみんな努力している」
という言葉は間違いで、正確には「成功した人のとってきた行動は努力と呼ばれる」ということになる。
生物は、「適応したから、生き残った」のではなく「生き残ったから、適応しているとされた」
何らかの生物種が現に生存している時(=絶滅していない時)、生存する為に有利と考えられる形質が適応として規定される。つまり「生存している」時点から遡って、「適応した」という過去が形成されるのだ。故に適応した種は必ず生存している
東方愛好者が集まるとあるコミュニティで、下品な話で盛り上がっている中、調子に乗って「霊夢さんに股間の異変解決をしてほしい」という末期的なギャグを放ってしまった。
投稿直後にふと我にかえった。いい歳こいて股間の異変解決。どこの高校生なのかと我ながら情けなくなった。
「課長 島耕作」の連載が始まった当初、主人公の役職は係長だったと思う。年齢は今の俺と同じぐらいだろう。結婚して子供も授かって、自宅も構えて、総合職として日本中を飛び回る30代がそこに居た。
男なら誰しもがいずれはそういうコースを歩むと思っていた時期があっただけに、未だに「股間の異変解決」と平然と言い放つ今の自分のことが、なんだか男として失格なんじゃないかと思えてきた。
OL進化論のメガネの人みたいな日常が理想的なのだが。彼の場合はたとえ酔狂で「股間の異変解決」と言い放ったとしても、それを咎めてくれる仲間が居る。俺にはそれがない。
俺は40代になってもこんな調子なのだろうか。
グールド自身による(自己の言説の歪曲された利用への)反論(訳は大意)
[T]ransitions are often found in the fossil record. Preserved transitions are not common -- and should not be, according to our understanding of evolution (see next section) but they are not entirely wanting, as creationists often claim. [He then discusses two examples: therapsid intermediaries between reptiles and mammals, and the half-dozen human species - found as of 1981 - that appear in an unbroken temporal sequence of progressively more modern features.]
移行形態の化石記録はしばしば発見されています。保存された移行形態は一般的ではありませんが、そしてそれは私たちの断続平行説が正しいのであればそうあるべきですが、まったく欠如している、そう創造論者は主張していますが、そういうわけではありません。
Faced with these facts of evolution and the philosophical bankruptcy of their own position, creationists rely upon distortion and innuendo to buttress their rhetorical claim. If I sound sharp or bitter, indeed I am -- for I have become a major target of these practices.
こういった進化の事実と彼ら自身の哲学的立場の破綻に直面して、創造論者は彼らの修辞的な主張を強化するために、歪曲と暗示に頼っています。もし私が辛辣に見えるのならば、実際その通りなのですが、それは私が彼らの実践の主要なターゲットとなっているからです。
I count myself among the evolutionists who argue for a jerky, or episodic, rather than a smoothly gradual, pace of change. In 1972 my colleague Niles Eldredge and I developed the theory of punctuated equilibrium. We argued that two outstanding facts of the fossil record -- geologically "sudden" origin of new species and failure to change thereafter (stasis) -- reflect the predictions of evolutionary theory, not the imperfections of the fossil record. In most theories, small isolated populations are the source of new species, and the process of speciation takes thousands or tens of thousands of years. This amount of time, so long when measured against our lives, is a geological microsecond . . .
私は自分を徐々に漸進的に変化が起きるというよりも、気まぐれで断続的に起きると考える進化論者のひとりであると考えています。
Since we proposed punctuated equilibria to explain trends, it is infuriating to be quoted again and again by creationists -- whether through design or stupidity, I do not know -- as admitting that the fossil record includes no transitional forms. Transitional forms are generally lacking at the species level, but they are abundant between larger groups.
(変化に)波があることを説明するために私たちが断続的平衡を主張して以来、何度も何度も創造論者によってデザインやなにやらを通じて、私が化石記録は移行形態を含まないと認めていると引用されたのは、はらわたの煮えくりかえる思いです。移行形態は一般的に種の水準では欠如していますが、それより大きいグループの間では豊富に存在するのです。
http://blog.goo.ne.jp/premier310/e/1fcfef25834d5f80331f42bfcc6b1c4c
The extreme rarity of transitional forms in the fossil record persists as the trade secret of paleontology. The evolutionary trees that adorn our textbooks have data only at the tips and nodes of their branches; the rest is inference, however reasonable, not the evidence of fossils. Yet Darwin was so wedded to gradualism that he wagered his entire theory on a denial of this literal record.
過渡的形態が化石記録には非常にまれであることは古生物学の「業界の秘密」であり続けてきた。教科書を飾る進化の系統樹には先端と分岐の結節点しかデータがない。どれほどそれが合理的なものであろうと、(過渡的形態の存在は)推論であって、化石の証拠によるものではない。それでもダーウィンは、彼の全理論をこの直接的な記録(過渡的形態の証拠の欠如)を否定することに賭けるほど、熱心に漸進主義を主張した。<()内は私の挿入>
原文はこれか。あと、訳はあんまり自信ないので大意、ということで。
ソースはここ。ちゃんと創造論批判の英語のサイトが検証してるみたいだな。
http://www.talkorigins.org/faqs/quotes/mine/part3.html
Quote #3.2のとこね。ざっと斜め読みしたところでは、グールドの断続平行説のからみで、中間形態がすべて存在するというところに疑問を投げているところで、進化論とか、化石の証拠能力に文句をつけているところではない、というところか。くわしいところは誰か訳して。
ちなみに、創造論者によって過渡的形態の欠如は進化論への反証として持ち出されるが、グールドの立場では、種が分化するときは漸進的にではなく急激に変化する、つまり過渡的形態が欠けることがある、ということだから、勿論、進化論とは何の矛盾もしない。くわしいことは断続平行説でぐぐれ。
ついでに、ここにも同じ発言への言及があるな。
http://www.allaboutthejourney.org/japanese/fossil-record.htm
IDの大御所の人の訳を見つけた。
化石記録における移行形態が極度にまれである事実は、古生物学の企業秘密(trade secret)になっている。我々の教科書を飾っている進化の樹(系統樹)は、その枝の先端と節においてのみデータが存在する。残りは、いかにもっともらしくても、推測であって化石の証拠によるものではない。
別に学術書まであたったりしたことがあるわけではないんだけど、
おそらくはダーウィンの進化論て現在も大きく否定はされてないと思うんだけど、
なにか納得できない。
たとえば、キリンの首が長くなったのは他の動物は食べられない樹上の葉を食べるため、
と当たり前のように説明されてるけど、なんかおかしくないか?
職業や普段の生活が体に影響を及ぼすのは、実際に見てるから納得できる。
ピアニストの指は普通の人より長めであるとか、大工さんの指は太いとか。
でもこういうことは一代限りの変化であって、遺伝するような性質ではない。
次の世代は、また初めからより高いところにある葉を食べるために首を伸ばさなくてはならない。
自然淘汰は樹上の葉を食べることが出来たものだけが生き残っていくことが出来た為、
より首の長いもの同士での交配により、
種そのものが首の長い性質を持つことになったというように説明されていると思う。
一見理に叶っているように思えるが、
これだけ多くの生物が、この方法でこれだけ異なる性質を獲得することは可能なのか。
地球には大変多くの種類の生物がそれぞれ全く異なる特徴を持って生きている。
食物連鎖という単純なようでいて複雑なしくみも、
出来上がったものをみれば自然のなせる業と納得できるかもしれないが、私はそうは思わない。
いきなりオカルトめいてしまうけれど、
やっぱりこの世界の成り立ちにはなんらかの意志が介在したと思う。
アミノ酸のある海に雷が落ちて生命が生まれたという説があったと思うが、
これに異をとなえる説もあったように思う。
うろ覚えであるが、ただアミノ酸がただよっている海に雷が落ちても、
すでにいろいろな人が注目しているけれど、世界各地に広がる、世界の成り立ちを描く創世神話。
それらはなぜか多くの共通項を持ち、かつて地球全体が同様の思想を共有していたかのようだ。
そうであったかもしれないことを、多くの人たちが感じている。
オカルトは好きだけど、それなりに眉につばつけて見てしまってもいる。
でも、あらゆるトンデモ話の中に、きっと真実は含まれていると思う。
しばらく忘れていたけれど、子供の頃は世界は仕組まれ、プログラムされたものだと普通に信じていた。
こんなに複雑な世界のしくみが、なんの意図もなくできるわけがないと思っていた。
いわゆる中二病だったのかもしれないけれど、
それを口に出して理解を得ることが出来ないのは子供ながらにわかり、同意を求めたことはない。
今思うと、どこからそんな思想を吹き込まれたのかそれこそふしぎだ。
エロは人のやる気を引き出します。
けっこう僕はなじみの女友達がいれば
乳はクリクリモミモミ揉みしだきます。
「え~、そんなことないよ~」とか言ってます。
バカでしょう。
「そんなことあるかいや」
とバシッといえ。
で、「あるよね~」と男同士で言い合ったりするな。
ないんだよ。
「それってまずくない?」と言うな。僕は間違ったことしてないけど
キミは間違ったことしてるよね。でも危害を僕には及ぼさないでね。
といいたいのか?
嘘くさいんだよ。いい子だから視界から消えろ。
東京人は、自分に危害が及びそうになるとすぐにうそ臭い予防線を
貼って逃げようとする。
逃げるな、東京人。お前らはキショいんだよ。自覚しろ!
アルバイトの店員ども!
腹に力入れてからしゃべれ!
逆に「ああ?なんて?もう1回言ってもらえる?」
「はい?、じゃなくてもう1回言ってくれ」
と俺はいつも言ってるぞ。ちゃんと言え。
「~よろしいですね?」
と言うな。
「いいから言ったんだから、間違えて理解したらいけないので
確認させてください」とちゃんと言え!
ダラダラするな、アルバイト。
俺は厳しい、だから店での注文は大声でする。
一度は近くの子どもが泣き出したことがある。
注文とは戦いなのだよ、坊主。
そんなこたぁどうでもいいんだ。
たまんねえ、むしゃぶりついてやるぜ。
むふうむふう。
女どもも所詮は自分のボディが気持ちよくなりたい生き物なのだよ。
ああ、街あるいていてもむしゃぶりつきてえ女どもが
たくさんいるぜ。きどってんじゃねえ。メス豚どもがああああああああああああ。
はやく進化したいものです。
僕がどうすれば東京でセフレができるかどこに遊びにいけばいいのか
それが知りたい。
それでは。
個としての強者というのは、数が少ないために、数の暴力という見方では弱者。
個としての弱者はというのは、数が多いために、数の暴力という見方では強者。
なので、世界は個としての強者が上位に来るようにはなるけれども、暴動・革命を恐れて弱者への迫害は数千年単位では少なくなってきている。
見方を変えれば、弱者を守らない世界と、弱者を守る世界では、後者の方が長い目で見れば成長しやすい。よって、競争の原理・進化論の原理に基づいて
『弱者を守らない世界』は『弱者を守る世界』に比べて弱者であるので、『弱者を守らない』という原理によって弱者である『弱者を守らない世界』は滅びる。
ヨーロッパの香りを漂わす裕福な家庭に生まれ、父は劇作家であり博報堂の取締役、母は映画女優という、生まれながらにして「ハイソ」な環境が周りにあった。
当然、御学友たちも文化的香り満載の本物のセレブが多かったに違いない。
小さい頃から本物を見続けてきた望夫は、それらに比べて自分の力がいかに劣っているのかを思い知らされてきただろう。
おそらく、例えば自分で文学的な文章を書いてみたこともあるだろう。
しかし、出来上がってみたものは今まで見てきた本物と比べていかにちっぽけなものだろうか。
下手にそう判断できるだけの客観性と教養があったがために、しだいにどんどん身動きがとれなくなっていった。
文学者の息子が理系に進むのは、偉大な父と同じフィールドに進むことから逃げるためだろう。
違う場所なら自分も人並みになれるのではないかと期待を持って。
他人の能力のすごさを嫉妬せずに理解できる、できるからこそ、同じ舞台にあがろうとしない、畏縮して上がれなくなってしまう。
無能の自分ができること、それは埋もれた天才を世に広めることだけ。
指したところで一流の棋士には、どうあがいたって彼らにはかなわないから、最初から指さない。
自分は優れた人間で無いことを自覚してるから、自意識を守るために勝負しない。
一流と戦って、負けることでも成長して、いつかは彼らの高みに近づこうという気力が無い。
一流のそばにいて、彼らは一流ですとアピールしてれば、彼らと勝負する事がないから、負ける事がない。
不良に「アツシさん、マジハンパねぇっす」といっている線の細いヤンキーのメンタリティー。
彼の不幸は、本が売れ、自分も勝負を挑まれる立場になってしまったこと。
「それなら、自分でなんとかしてみろよ」という批判に答えるためには、自分で何かをしないといけないが、自分で何かを作り出す事から逃げてきた人生。
やればできるかもしれないこともやらない、やっても一流の人にはかなわない。
「はてなブックマークはバカばっかだ」取締役という立場を離れないと言えない
逃げて逃げて逃げて。
200X年X月、将棋ファンのMさんが著した「将棋進化論」は、将棋の可能性をポジティブに語り、国内の「将棋 2.0」ブームに火を付けた。
だがここ最近は、将棋について語ることは少なく、昨年11月には終盤まで優勢に進めた将棋を二歩で反則負けするという“読み抜け”も起きた。
指さない将棋ファンであるという立場を離れて言う。将棋ファンには、バカなものが本当に多すぎる。棋士を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている将棋を指さずに、指し手の批判や自分の読み筋を披露できるのだろう。そこがまったく理解不明だ。
一方、今年5月には、最新刊「千駄ヶ谷二丁目からチェスを観る」を出版。その名の通り、チェス観戦の魅力を語った本で、帯にはこうある。
「わたしが本当に書きたかったのはこの本でした」
同書で彼は、“指さないチェスファン”としてチェスを語り、第一線のGMの努力と天才性を「千駄ヶ谷二丁目の棋士と通じる」と賞賛。リアルタイム観戦記を自ら執筆し、チェスを将棋という日本文化を広げる媒体として位置付ける。
3年前、将棋を賞賛し、将棋の可能性を力強く語ったMさんが今、将棋について語ることを休み、一流のGMたちに魅了されている。
Mさんは日本の将棋に絶望し、チェスに“乗り換え”てしまったのだろうか――記者は新刊からそんな印象を受け、Mさんに疑問をぶつけた。
最近Mさんは、日本の将棋についてあまり語っていらっしゃいません。新刊を読んでいると、「日本の将棋はチェスのようにはなれないから、今度は世界のチェスに期待する」と思われているような印象を受けました。
今の将棋について、意図することがあるから語ってないわけではありません。
とはいうものの残念に思っていることはあって。英語圏のチェスと日本語圏の将棋がずいぶん違う物になっちゃったなと。
仮に今の将棋がネガティブなものになったとしても、それを分析しようというモティベーションがそもそもないんですよ。
(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html 続かない、カッとなって書いた反省している、ゴメン)
関係ないけどあのウイルス進化論の中原って人はテレビの中で「よくわかんないけど医者にきいとけばいいか」的話題のコメンテーターとしてしょっちゅう出てきますな。テレビ出るのが好きなんだろうなあと思う。
いろんな説があるといっても遺伝的に変化するという部分は共通してるわけで進化論を丸ごと反証したいならそれを反証するしかない。たとえば自然選択を反証しても中立説の反証にはならないわけで、この場合進化を起こした要因について変わるだけで進化自体は否定されない。
進化論を反証したいなら、生物の化石は全部今の生物と遺伝的な関係がないものばかりで今の生物は将来も遺伝的に変化しないという証明をしないと。
これが反証不可能ってことなんじゃないの