2024-09-19

慣用句かいう「お前、シェイクスピアぐらいは読んだことあるだろ?」みたいな前提に基づいた表現はどうかと思う

ぼっち・ざ・ろっく!というアニメがある。

俺はこれを娘と見ていたのだが、娘が「猫背のまま虎になりたい?どういうこと?」と聞いてきた。

いきなり娘に山月記の話を始める自意識歪めママにはなりたくなかったので「虎みたいに強くなりたいってことだよ」と説明した。

ああ、なんてことだ、本来意味の3割ぐらいしか伝わっていない。

猫背のままで?」と娘は返してくれなかったので、ただ「強くなりたい」という歌だと思ってしまたかも知れない。

でもそこで掘り進めるのは感想押し付け狭量ママみたいだから辞めた。

ぼっちちゃんが強くなりたいのは事実だ。

でもそれは弱いままの自分に対して否定と肯定を織り交ぜた強さだ。

李徴のように自意識過剰な自分存在に対して「心が弱いままでも、物理的には強くなれるなら、そんな不健康な強さを自分ロックとして貫きたい」と宣言している、はずだ。

ギターヒーローとしての強さと、後藤一人としての弱さ、その二つを合わせた自分を「ぼっち・ざ・ろっく」として肯定してくれたことで、走り出した思いを載せた歌詞、のはずだ。

から「虎」意味しているのは「強くなりたい」では不正解なのだ

「弱い自分を抱えたままで、強くなりたい」なのだ

猫背のままで」と合わせて2回分の弱さと1回分の強さで、2:1で弱いに偏ったままの歪な強さ、それしか出来ないならそれを目指すという決意なのだ

たとえば世の中によくあるのは「健全精神健全な肉体の両立。つまり強くなることで両方手に入れる!」という完全に前のめりな精神、最終的に0:1で強さが圧勝する強さ、それを目指すことが肯定されがちだ。

そんな世界に押しつぶされ、自分を偽りながら手に入れた見た目だけは0:1だけど実際には1:1の強さなギターヒーロー、そして結局残った1:0で切り捨てた弱さばかりの自分の心、それらを混ぜ合わせて生まれる2:1の弱さ多めの強さ。

ぼっちちゃんロックを」と背中を押されたことで、弱さ成分多めなままの自分を光の下に曝け出すことを選らんだから手にした1:0じゃない自分、それが「猫背のままで虎になりたい」なんだって、俺は思ってるから

でもこんなこといきなり言われても相手は困るだろうな。

まずは山月記を読まないと始まらない。

一生始まらないんだ。

なんてことだ。

生山月記を読まなかったら、一生分からないんだ。

慣用表現って確かに便利ではあるんだけど、こういうどうしようもない不親切さを抱えてるよなあ。

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