2024-01-05

言語化してくれてありがとう」は学校教育の賜物

我々は感想文を書くとき小学校低学年では「~だと思った」で終わる文章しか書けなかったのに、徐々に「~だと考えさせられた」「~と感じた」など、それっぽい言葉文章を締める手法を獲得してきた。

この手法はたとえ感性が1ミリも変わっていなくても、表現する言葉を駆使すると文章が格段に『良く』なり『説得力』が増すことを(そして文字数を稼げる上に、教師の受けが良いことを)、学校教育を通じて身につけてきた。

そして今、良き書き手自分の言いたいことをすべて表現してくれたのだと褒め称え、自分感想すら放棄する「言語化してくれてありがとう」を獲得したことは、上記事柄と一直線上にある出来事だと私は思う。

なぜなら、文章をとにかく『良く』して『説得力』を持たせることを重視してきた者たちにとって、学校感想文や小論文ほど文字数を稼ぐ必要のないSNSポスト自分感想を長々と言語化することはあまり意味がなくタイパが悪く、とはいえヤバイ」「すごい」と書くだけではただの阿呆だと思われるので、ここはひとつ言語化してくれてありがとう」と表明して、「実は自分は常々このように思っていたのだ」という顔をしてみせ、実際にどのような理解をしたのか、どのような心の動きがあったのかは秘匿するどころか、これを読んだあなた委譲することにしよう――というのがかなり効率的自分を良く見せられる方法からである

そしてこの『効率的自分を良く見せられる』というのがまさに、それっぽい言葉が良い点数を稼げることに繋がることを教えてくれた学校教育の賜物であるのだ。

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