以前はあれを食べれば満足みたいな好き嫌いがあったけど、最近はどんな食べ物も「普通」の枠に収まってきた。
代わりに気分に支配されるようになってきた。
餃子の口になってる時に餃子を食えれば大満足。でもそうでない時に食ったって普通の食事でしかない。
常日頃餃子を食べたいと思ってる訳でもない。
その気分になってさえいれば、餃子の満足度と他の食べ物を食べた時の間にさほどの優劣はない。
前は唐揚げだけちょっと頭一つ抜けた好物で、いつ食ってもそれなり以上に満足だった。でもそれすら最近は気分に飲み込まれるようになった。
これが加齢の始まりかと思ったけど、流石に23でそこまで体調が影響するなんて事もなさそうだし。還暦過ぎの親父は脂っこいもん喜んで食ってるしおれより食欲旺盛だし、その辺は完全に人によるんだろうな。
満足度の優劣はないけど、気分の波が来る頻度には差がある気がする。それがより好き、あるいは少し劣るって事なのかもしれん。
そもそも好き嫌いってそんなもんなのかもしれんけど、それにしたってここまで気分に左右される事はなかった気がするんだよな。
嫌いって訳じゃないけど、納豆の口になる事はほぼない。嫌いではないけど好きになる機会がほぼ訪れないので、普通という括りになる。
チョコは別に嫌いって訳じゃないし、その気分になってる時に食えば満足できる。
でもそもそもチョコの口になる日が滅多にこない。貰い物を永遠に放置する事がザラにある。これも「普通」かな。
口にできない食べ物はないけど、明確に嫌いな食いもんははっきりしてる。生の貝はいつ食ったって嫌い。
あんまり箸が進んでない時に「嫌いなの?」って聞かれると、「嫌いではないけど気分じゃない」という感覚を説明するのが面倒。そもそも面倒臭い奴だと思われるのが面倒臭いだから適当にいなすけど、そういう嘘は後になって自分を苦しめるし。「好きだって言ってたじゃん」とか言われてアンビバレンスに挟まれながら食う飯はさぞ不味かろう。
しかし食べてて本当に「無」になるモンなんてそうないだろうし、好きか嫌いかに少しくらいは傾いてるもんだと思う。そういう意味では「普通」も正確にはほんのりと嫌い寄りかもしれん。
鬱病の人間は飯が楽しくなくなるって言うらしいけど。確かにタルメンは万年終わってるけど、別に食事がつまらん訳でもないしな。
嫌いと普通だけが確定してて好きだけが気分次第で訪れるってのも自分に振り回されるみたいだ。その時の気分はその時の自分にしか分からないからちょっと不便。
ただでさえ人と飯行くのあんま好きじゃなかったのに、その上満足な食事にありつける確率が下がったみたいで人付き合いの億劫さが加速するな。