例えば目の前でゴミを捨てた人がいる。
そうするとブクマカは「ゴミを捨てるなんてけしからん!」とか「ゴミ箱を適切に設置しろ!」とか騒ぎ始める。
自分たちはゴミはちゃんと捨ててるから悪ではないと思いこんでいると思うのだけど、そうじゃなくない?
四の五の言う前にまず捨てろ。話はそこからなのよ。
「義を見てせざるは勇無きなり」って結局何が言いたいのかというと、そこに「道義」があるのに「しない」ってことは「勇気がないよ」ってことなので、本来そこですぐに「ゴミを捨てる」という選択ができない以上は「お前は腰抜けだ」と言われているわけ。
だからそこで「ゴミを捨てる」という選択ができなかった人は、ゴミを捨てる人を責めるとか、環境に原因を求めるとかより前に、自分が捨てられなかったことを恥じなきゃだめなのよ。
もし道にゴミが落ちてたらノータイムで拾って捨てられるって人がどれくらいいる?
でも、それを捨てた人や環境のせいにはしない。
自分にはノータイムで捨てられる勇気がなかった。そうやって必ず悔いるようにしている。自分ができる範囲で、捨てさせない方法を考えたりもする。
周りの人に捨てた人と思われたら嫌だとか、拾ったゴミを持って捨てる場所を探すのが嫌だとか、今の時代だから感染症が怖いとか理由はいくらでもある。
「ゴミが落ちてたら捨てる」というあまりにも当たり前な道義がそこにあるのに、どんな理由であれそれを捨てることができなければ勇なき行動なんです。
まずはその事実を認めることで、はじめて次に何をすべきかが見えてくるでしょ。
それもしないで捨てた人や捨てさせた環境をどれだけ批判してたって、なんにも変わらない。
自転車を倒してしまった人がいたとき、明らかに道がわからずにきょろきょろしている外人がいたとき、昼間から酔っ払って道端で寝ている人がいたとき。
すぐに頭が言い訳だらけになって何も行動ができなかったときは、まずはできなかった事実を受け入れて、その上で次にすぐに行動に移せるようにするためにはどうしたら良かったんだろうと考えるようにしている。
そのおかげで、少しずつ自分がしたいようにしたいことができるようになってきた。
偽善と思われるかもしれないってこと自体、自分の弱さって考えれば解決は必ずある。
結局のところ、人は何を言っているかより何をしているのかで見るのが一番早いってことなのだよね。
先日、道端で眼の前を歩いているお兄さんがポイ捨てしたので吸い殻を拾ったわ。 通り過ぎてから見えるように手持ちのコンビニ袋に入れたが、お兄さんが気付いたかどうかまでは確認...