「古い価値観」を否定し、「新しい価値観」に沿っていない意見は徹底糾弾する。
結局多様性でみんな幸せになんてのは方便で、ただ「宗教の置き換わり」が起きているだけ。そこで住みづらいやつは悪いやつでいくら糾弾してもよいことになる。「真の反省」と「アップデート」を強要し洗脳する。
では正しいこととは?多数決だ。イイねの数で意見の是非を決定する。少ない方は「悪いお気持ち」。それが多様性の仲間として肯定されることはない。
世界は良くはなっている。差別や偏見による殺戮は減ってはいる、改善はしている。しかし同時に新たな「正しい差別」という爆弾を育み続けている。それが爆発するとどうなる?まだ誰も分からない。それはコロシアイでなく、自殺かもしれないし、隔離かもしれないし、就労機会の剥奪かもしれない。殺人よりはマシかもしれないが、根本的な対立を覆い隠しておきながら実は厳然と存在しているという様を「正義」だとするのは実に歪んでいる。まず「対立はするもの」「偏見は持つもの」である(少なくとも一定の集団は)、から始めなければならない。