2020-06-21

概念としての猫

思えば小学校の時から他人という存在は私にとって不可解なものだった。

たとえば私の動作に1から10まで難癖をつけてくる他人。笑えばただ気持ち悪いという、笑うなというのだから笑わなかった。たとえば私にしたことをそのままそっくりやるとなぜかとても怒り出す他人。私は何をされても嫌だと言い続けていたのにやめなかった、誰も私の嫌だという言葉を聞かなかった、だから同じことをしたのにどうして私の方が最終的に怒られなければいけないんだろうか。たとえば私のことをよくわからない噂で語る他人。きちんと真実を訂正してもなぜか尾ひれがついてどんどん私の印象は悪くなっていく。学校や家庭で生まれ他人というものへの不信感はいつになっても拭えなかった。

それでも恋人ができた。恋人もやはり他人だった。なにをきいても自分気持ちがわからないという。なにを約束しても忘れてしまう。何かあっても遠い思い出のようになかったことになっている。それでも好きで好きで仕方なくて、相手のことを知りたくて、私のことを理解して欲しかった。そう望めば望むほど望んだものが得られずに苦しむことになった。いよいよ恋人他人であることに絶望した時、私の頭にまさに天啓とも言えるアイデアが降りてきた。ちょうどその頃住んでいた家では猫を飼っており、私は毎日猫の生態を目の当たりにして生きていた。アイデアとは猫の生態を恋人に当てはめるというものだった。これにより私は恋人約束をすっぽかしても、自分気持ちがわからなくても、全て猫だから当たり前だと思えるようになった。本物ではない概念の猫と私とは完全に分かり合えないが、見つめ合っている間はもしかして通じ合っているのかもと錯覚できる。これで救われた。

そんなことを繰り返しながら大人になって、付き合った3人目の恋人がとうとう猫扱いされていることに感づいた。同じく猫が好きな人で、何か違和感を感じていたんだろう。その人は私に「自分を猫というペットに貶めていじめて遊びたいのか」と聞いてきたのだ。あまり想定外だった。でも、もしかしたらそんなことを思われても仕方ないのかもしれないと思い私はなにも言わなかった。否定肯定もしなかった。

そして私が入れ替わりで猫になった。それでやっと納得した。どうして今まで私と他人とは同じ人間だと思っていたのだろうか?私が異種族の生き物の方だったのだ、と。

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