もう去年からボケのせいか自分でご飯を食べられなくなっていた。
母が必死に、柔らかく煮た肉や野菜、水を飲ませたからここまで生きてられたのだと思う。
正直年を越せるとは思っていなかった。
あの日は母がずっと看病していた。
痛くて起き上がれず、寝ることで痛みから逃げていた時、父が体調が悪いと仕事から帰ってきた物音を聞いたのを覚えている。
また眠気に負けてうとうとしていたら、次は母がすすり泣く声が聞こえた。
それで亡くなったんだなと気づいた。
しばらく身の置き方が分からず寝たふりをしていたが、父が起こしに来たのでリビングへ向かう。
すぐにペットの火葬専門の人を呼ぶというので、ひとまず撫でる。
痩せてガリガリなのは覚えていた感触と違ったが、毛並みや暖かさや、耳のふわふわ、足の折りたたみ方、首の座り方がいつもの愛犬だった。
ほんとに死んでいるのかと思った。
母が落ち着いたので、変わらずまっすぐを向けない首を治しに整体へ向かうことにした。
火葬の人は深夜近くにならないと忙しくて来れないという。
火葬の時、痛みで外に出れないのは嫌だったので、今のうちに少しでも治しておこうと思った。
棺のような仮の箱は、少しでも冷えている玄関近くの廊下に置いた。
整体から帰ってきて、深夜に火葬の人が来て、棺から母が愛犬を出した。
見た目はいつもの愛犬でも、母に取り出された様子からさすがに死んでるなと思った。
艶のある頭を撫でて、耳のふわふわをふわふわして、背中を撫でた。
まだ暖かかった。
毛皮とはすごいものだと思った。
火葬の機械に入れられるとき、あったかかった感触を思い出して、なんだかまだ何かは生きてる気がしたので、可哀想だなと思ってしまった。
自分の頭の中では間違いで生きたまま土葬されたよその国の人の怖い話が思い出されていた。
正直、去年からは自分で歩くこともできず椅子の隅で丸くなっていた愛犬の存在は、日中家にいない自分の中で薄くなっていた。
と、思っていた。
しかし最近、スーパーで買い物をした帰り道に、尻尾を振りながら寄ってくる愛犬を荷物で塞がった両手で撫でるのは大変だなと考えながら帰宅したり、
母に言い訳をしたときに、ねーそう思うもんねと同意を求めそうになったり、
そういうことが多くて、存在は十分にあったのだと思う。
もう一回会えるなら、ぎゅっとした後に一緒の布団で寝たいなぁと思う。
かわいかった頃の記憶だけ残るよね。