2018-07-08

麻原彰晃で思い出したけど

最近祖父が亡くなって葬式とか通夜かに行ってきたんですけど、焼香ってあるじゃないですか。

あの順番に歩いて灰か何かをパラパラして合掌するやつ。

ネットとかでよくいる人たちみたいに、その作法もよく分からなくて戸惑うんですけど、これは最終的には見よう見まねでなんとかなる。

でも、問題は合掌の時ね。

手を合わせて、なにをすればいいの?

その時はなんも思いつかなかったから他のこと考えてた。

冥福を祈る?

そもそも天国はあるのか?

自分存在しないと思うので、存在しないと思ってるものに祈ることはできなかった。

安らかに眠ることを祈るのか?

これも同じく、眠ってるのではなく死んでいるので。その後もない。

死ぬまでの人生が楽しかったものであろうことを祈るのか?

これか?とも思ったけど明らかに過ぎた過去のことに祈るの?という感じになった。

ちょっと方向性を変えて、自分もこの年まで生きて死ぬことを祈るのか?

そもそもそんなのいつでもできるしなあ。

じゃあ、最後は楽に死ねたことを祈るのか?

これも先述と同じく過去のことであり、他のすべてにも言えることだけど、自分がどんなに何かを願ったところで死んでしまった人たちが何か後から報われるわけじゃないな。報われると自分が思うだけ。

そんなこと言ったら何を?と思うけど、上の世界観を持つ人は上述のどれかでいいんだと思う。

その人なりの世界観で弔ってほしい。他人世界観否定するつもりはないので。

で、まあ自分みたいな人は好きにすればいいと思う。好きにするとはいっても、好きな言葉という意味で。

おつかれ、でもいいし、結局先述のどれかでも別に構わない。

けど、「自分の中」のその人が、1番自分のさせたい感情になるような言葉を、かければいいと思う。

これもどこでもできなくもないけど、目の前でやることによってより具体性と印象性を持たせることにもなる。

自閉的かもしれないけど、

その観点にしても、結局、人は自分のためということなしに生きることはできないんだし。

まあ、自分かつ他人のために生きることはできるんだろうけど、この場合においてはその他人は死んでしまっているので、必然的自分が一番満足することが目的達成になる。

自分認識する他人なんて頭の中にしかいないんだから、頭の中で消化すればそれでいい。

あ、全体的に道徳的世界観での話ね。

それ以外の人は煮るなり焼くなり好きにしたらいいと思う。

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