…と。私は「ちゃんと自分のことばで人にわかるように」書いた。あれで分からないなら説明する。
「生きている人のための葬式」というのは当然前提。だが、生きている人の中にも死者の一部は含まれている。死んだからといってたとえば遺産がゼロにならないのと同じで、形あるものも形のないものもその人が現世に残したものは当然「ある」。父親が死んだからといって元増田やその母を「あの人の娘や妻」と思う人はいきなりゼロにはならないし、それらの人の中に残るその人に対する思いもあるのだ。そして、それらはあくまで「他人の思い」であり遺族の所有物ではない。たとえ思い出一つであっても、それは他人の財産とも言える。それに泥をぶっかけるように台無しにしたら、そりゃ少しくらい腹を立てられても当然だ。
人というのは、たとえば一軒の店のようなものだ。顔があり関係があり、そこにつながる様々な利益があり、そこにつながる思いがある。常連客がいて、地域においてもその店があることには様々なベネフィットがある。もちろん、一軒の店には当然オーナーがいて、店を開けるも閉めるもオーナーの勝手だが、それでもそこに関係する様々な人はいろいろな思いを抱く。だから、閉店するとなれば告知をするし、「閉めるなら最後に思い出に」とか、その店が閉まるなら一度だけきておこうとか、なごりを惜しんで写真を撮ったりもするだろう。常連客が集まって最後に思い出を語りたいかもしれない。オーナーやその親族が、そういういわば店の「葬式」的営業をせず、いきなり「閉店」の紙切れ一枚貼って電話で連絡も取れないようにして夜逃げ同然に店をたたんだら、そりゃいろいろ言う人も出てくるだろうし中には気分を害する人もいるだろう。オーナーが「そんなの知ったことじゃないです」と思うのも勝手なら、気分を害するのも他人の勝手だ。勝手と勝手で社会的にマイナスが発生するなら、そうならないように利便を図るのも知恵だ。まして今後も社会の中で人との関係を続ける意志があるオーナーなら、普通そういうことはしない。そういうことだ。
というわけで要約産業。
客「紙切れ一枚で閉店とか、長く続いた店のカンバンに最後に泥塗るようなことしなくてもなあ…」
父親の人生。これまでに人生で元増田の父親が作り上げてきた人とのかかわり、それらの人の思い出の中にあった「その人」の記憶。それは、元増田の父親が作り上げた「財産」だった...
結局何に泥を塗ったのか全然わかんない。ちゃんと自分の言葉で人にわかるように書いてほしい。 故人は亡くなってしまったもういないので、別に大々的に葬式をしようがしなかろうが...
…と。私は「ちゃんと自分のことばで人にわかるように」書いた。あれで分からないなら説明する。 「生きている人のための葬式」というのは当然前提。だが、生きている人の中にも...
あなたの言う通り、私は「そんなの知ったことじゃないです」と思うので価値観の違いでしょうね。 あなたの意見に決定的に欠けているのは「故人の友人知人が嫌な思いをした」という...
>「故人の友人知人が嫌な思いをした」それはあなたの想像でしかない。 と言いつつ >たしかにそういう人もいるかもしれない …と言うからには、否定はできないのだよね。というか...
顔と人生の区別くらいできるようになったほうがいい つーか人生にしても死んだ時点で終わってんだけどなw
常識はところ変われば変わっちゃうんだから「なぜか?それは常識だから」は止めておけ
「『常識だから』は思考停止」という言葉もまた立派な「常識」なわけだが、自分がそれを振り回してるという自覚がないのだね。 私は前の投稿で「現代でそれが社会常識である理由」...
これ分かるわー。そもそも意見が対立してる時点で常識かどうか怪しい上に、仮に常識だとして何でそれに従わないといけないんだ、っていう疑問もある。
http://anond.hatelabo.jp/20170131232919 お前は赤の他人を非常識呼ばわりして顔に泥を投げている。ゴミだなお前は。 自己中で傲慢で自分の常識とやらが絶対だと思っている。キチガイとさえい...
他人が、自分や同類の行動に対し、理由を掲げて疑問を呈する行為を、「不当な攻撃」としか受け取れない。そして、それに対して「他人が不当に攻撃しているなら自分だって不当に攻...
なんかこの議論って、一昔前に増田で流行った「飯を残すことの是非」に似てる。 あれも「食べ物になるために死んでいった動植物に感謝をすべき派」と「もう死んでるものに感謝もク...
父親というか親を憎んでるフシは感じるのに、 一方で、家族が存在している気がしない言及しなさの方が気になる まー、創作だろうね。