映画観てないけど。
聲の形面白かったけどけど、なんかろくな感想書いてるやついねーなクソと思ったら、
本にまでなってるなぞ解き聲の形ってサイトに全部書いてあった。
でもなー。
そこで長大に考察してる因果応報っていうよりは、まさに声の形についてずっと描いた物語に見えたよ。
声って目に見えないし形がないものだけど。
形があるなら、目で見てはっきりと伝わるものになるかと思えば、そんなこともなく。
逆に、耳や言葉に不自由のない、健常者だって、ろくに気持ちなんて分かりあってないよねって、あからさまになるという。
植野が硝子と再会してつっかかって、将也と硝子の間に割って入れない関係ができてるって悟って泣き笑いするシーンが、まさにそれだよな。
耳が不自由だと、大勢の健常者とはコミュニケーションをとりずらくなって壁ができるけど。
手話ができる二人と、できない植野の間に、逆に壁ができてしまう。
声の形について、考えさせられるシーンだ。
耳が聞こえないとコミュニケーションに不自由して気持ちが伝えられない、ハブられる、迷惑をかける。
そんなの言葉が普通に使える人も、大差ないじゃんよって話だよな。
子供ならではの残酷さと間違いを、大人になりかけの高校生がずっと引きずって、本音も言えず、本音を言い合えば皆楽になるのに言えず。
そういう傷を負いながら、生きていくって。
面白かったなぁ。
硝子と将也が手話で会話するのを見て、
「ほら やっぱり立派になったじゃないか」
というシーンで唯一泣いた。
そして、他人事として眺める分には、最高に感動できるセリフでも、物語の当事者たちには、わだかまりを払拭するには十分じゃないという展開に最高に泣いた。
声の無力さよ。
しかし我々は声にたよって、無様に、お互いに怯えながらコミュニケーションをとっていくしかないのだった。
ほんと面白れぇな!