誰かと協力せずに、一人で一貫してできる仕事というのは、比較的
規模の小さな問題を解決するものだったりする。内容にもよるけれど大抵はそう。大きな問題の解決は協力者が必要になる。
だから、過去(前世など)に、一人で一貫してできる仕事を達成してしまった人間は、次に(今世では)、より難しい課題、皆で協力しないと解決できない大きな課題に取り組むように本能が作られてしまっている。一人で一貫してできる仕事に興味が向かない。
困難を抱えるにも関わらず、より大きな課題に向かおうとするのは、理にかなっている。生命は、成長する生き物という理由もあるけれど、小さい課題解決であればあるほど他の人でもできる仕事になってくるからだ。つまり、とって変えられやすくなり、自分の存在意義の問題になる。
大きな課題に向かうのは、できるかできないか、簡単でないとか、賢くないやり方とか、そういう問題ではなく、問題解決に焦点している。
しかし、ここで問題が生じる。協力して解決する大きな課題とは、
そこそこに、精神がきたえられていて、社会の課題解決に心が向かっている人間でないと協力できない。
未熟な人間であればあるほど、世の中の課題よりも、自分の問題(とりわけ心の問題)のほうが重大だから。自分が救われるか救われないか、
自分に関心がある。大抵は、自分が認められるかどうか。自分がチヤホヤされて華やかになれるかどうか、に関心がある。
なので、問題が目の前にやってきても、社会問題を聞いても、問題としてキャッチしない。これをリアリティーがない、と感じるらしい。他人事の様に感じるのだ。日本の経済がヤバイとか、会社という組織がガヤバイという事よりも自分が認められるか、というような(自分だけの問題)、より小さな事に関心を向けている。
このような、まだ卵のからが割れていない未熟な人間と共同する場合、其々が強みを生かした共同の仕方、横並びの連携がとれない。
半人前なので、人に使われるような働き方になってしまうし、当然、本人もそれは嫌だ。
というか、半人前は社会の課題を自分が解決するために働くという意識ではなく、仕事が自分にサービスしてくれるものであるかどうかを考えている意識だったりする。